根田祇園原貝塚は、千葉市との境界を流れる村田川と市域のほぼ中央を流れる養老川に挟まれた市原台地上に所在する。

 1977年から4次にわたる発掘調査、更には1994年以降5ヵ年計画で整理作業が行なわれたが、貝塚の全体像は未だ見えて来ないと云う。

根田祇園原貝塚現場

 総国分尼寺跡の西側に一部重複する形で広がる馬蹄形貝塚。

 縄文後期から晩期にかけての住居址が51軒検出されたが、いずれも出入口と見られる施設が敷設され、又時期の変遷と共に住居の平面形態に変化が見られた。

 更に主柱穴は見られないが、壁柱穴が住居を一巡し、中央には径90cmほどの炉址が見つかるなど当縄文ムラの特徴が確認されたと云う。

遺物包含層からは多量の土器に混じって、以下の写真のような異形土器が検出された。

 又貝層中・貝層下からは埋葬人骨が112体も出土したことから貝塚の規模を改めて窺い知ると共に、死者を呪う荘厳な祭祀儀礼が異形土器から想い起こされる。

 れらの異形土器は、祭祀儀式に使われ役立てられたと考えられる。

当貝塚の耳飾り

当貝塚のヒスイ製大珠

 層中からは約300点にのぼる骨角貝製品も出土し、特に装身具として装着されたと見られることから、写真のようなアクセサリーと共に祭祀儀礼が活発に行なわれたと考えられる。

 ほぼ同時期の貝塚である西広貝塚は南東約1.3kmの距離に所在することから、西広貝塚と同じような自然環境・精神生活様式などが想い起こされる。