長 | 崎 | 県 | 壱 | 岐 | 島 | の | 原 | の | 辻 | 遺 | 跡 |
原の辻遺跡 は、壱岐島の南東部、長崎県内第二の平野“深江田原”の中にあり、芦辺町と石田町にまたがる弥生前期末(約2,200年前)から古墳時代初めまでを中心に約500年続いた大環濠集落跡。 東西約260m・南北約620mの内濠に囲まれた台地上の16haを中心に、中濠・外濠が巡らされ、総面積は約100haに及ぶと云う。 平成5年より本格的発掘調査が始まり、大陸・朝鮮半島との人・モノ・情報の多彩な交流が判明し、卑弥呼の邪馬台国時代を記す中国の歴史書「魏志倭人伝」に記載された国々の中で、唯一王都として特定された「一支国」王都と分かり、平成12年に国の“特別史跡”に指定された。 |
写真左上より整備されつつある特別史跡公園入口、現在も発掘調査中の環濠とその周辺及び写真左が広大な遺跡の核となる台地中央部。
内濠に囲まれた台地中央部が「一支国」の拠点であったことは、発掘調査された高床主殿、南側の脇殿、北側の小型高床祭殿とそれらを囲っていた板塀などの遺構から容易に推定される。
内濠は中枢部を護る特別な濠を意識したと考えられ、V字溝が巡らされた中濠・外濠を含めた三重の環濠は東西約350m・南北約750mの楕円形の台地を囲んでおり、“防御”・“戦闘”などの
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鉄製・銅製鏃は当時のハイテク武器と考えられるが、本遺跡は鉄鏃より銅鏃が断然多く、80本ほどが出土したと云う。 鏃で最も多いのは石鏃で、黒曜石や頁岩製の磨製鏃が多く、又クジラ製骨鏃や木鏃なども見つかっている。 両端を円錐状に尖らせた素焼きの投弾も数多く出土している。
接近戦用としては、全体を紐で補強した日本最古の朱塗り楯や石剣・石戈・シカ角製骨剣など武器・武具は多種多様に及んでいる。
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農具をはじめイネのプラントオパール(化石)、矢板を並べた水田畦畔遺構・水田跡などが発見されており、低地一帯に水田が拡がっていたと見られる。
しかし「魏志倭人伝」の中で「・・・・田を耕してもなお食べるには足らず・・・・・」と記されているように、米が主食として確立されるまでに至っていないと見られる。 マグロ・サメ・クジラ・アシカなど大型魚類・哺乳類などを追う漁労民は縄文時代から存在し、漁労民が架橋となってやがて弥生時代以降、中国大陸・朝鮮半島の文化が導入されたことが分かっている。
このような漁労民・「水人」の姿は出土遺物から垣間見える。 米・魚介類以外にはクルミ・シイなどの堅果類、カモ・キジ・シカ・イノシシ・クジラ・イルカなどの動物や食用として飼育されていたと見られる、渡来系の中型犬が40頭余りも出土しており、食糧事情には恵まれていなかったと考えられる。
武器・武具などの生産・確保・治安維持などに労働力が向けられ、食糧の生産・採集・確保にまで労働力が十分回らなかったとも考えられる。
台地中央頂上部には高床主祭殿、平屋脇殿などが直列する祭場が塀で囲まれており、首長による祭儀が執り行われた神聖な場所であったと見られる。 |
漆塗土器・ココヤシ笛 |
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豊穣に関する遺物には土器に描かれた竜(竜は中国の神仙思想に基づく神獣)、銅鐸に描かれたカエル・トンボなどが龍神信仰の証として水の神に祈り、豊穣を祈願したと見られる。 厳しい食糧事情は豊穣への祈りを加速させたかも知れない。 |
マツリに使われた用具としては、表面を赤く塗った丹塗土器、漆塗台付杯などが祭祀用具として製作され、又顔料確保に使われた石器も発見されている。 |
ココヤシ製笛は重々しい音色を発する楽器として加工され、祭祀儀礼には欠かせないツールであったと考えられる。 |
卜骨・人面石製品 |
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一方祖霊に関する遺物は卜骨、人面石などに象徴され、共同体集落の安寧を祈っていたと見られる。 |
卜骨は古く中国で始まった吉凶を占う風習とされており、中国大陸とのかかわりがマツリの場まで浸透していたと云える。 人面石製品は高さ10cm余りの面長で、その姿は何を叫び、伝えようとしていたであろうか?
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船着場跡・床大引材 |
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大陸と日本列島との間に飛び石のように位置する壱岐と対馬は、大陸との文化交流の「海の回廊」としての役割を果たしてきたと云われている。 特に本遺跡は一支国の首都として、大陸からの最古最先端の技術・情報をいち早く受け入れ、ものにして行ったという事実は、地理的にも文化レベルの格差からも、そうせざるを得ない切実な認識・覚悟があってこそと思われる。 |
船着場跡は平成8年低地部で発見され、遺構の長さ約10mの2本の突堤と幅約7mの通路を持っていた。 全体としては幅約26m・長さ46mほどの大掛かりな施設と想定されている。
一方「床大引材」は、高床建物の床を支える横材で、柱と連結するため中央に「ホゾ」用の穴があり、「ホゾ差込栓留め」として知られている。 船着場近くからは朝鮮半島系の土器が多数出土し、又「床大引材」もこの一画から出土したことから、半島からの技術者が集中して住んでいたところではないかと推測されている。 |