天遺跡は開田に伴い発見され、北上川左岸に接する総面積約2haの縄文中期から後期の集落跡として知られている。

 仮面習俗の源流とも云える鼻・耳・口の土製品が発見されたことと合わせて、縄文後期最大級の住居跡が見つかったことから、昭和52年に国史跡に指定された。

八天遺跡現場

 遺跡眼下に北上川がゆったりと流れ、北上川が遺跡の母であったことが窺い知れる。

 本遺跡からは同一形態で10回も建替えを繰り返した大型円形建築遺構が検出され、その規模は最大で長径約17m・短径約13.5m、最小で長径8.4m・短径7.6mもあり、当時としては特大の建物と云える。
柱穴は当初径1.0〜1.5m・深さ1.5〜1.9mに及び、大型家屋が大から少しずつ小へと規則的に建替えられており、集落の小規模かを反映しているように思えるものの、巨大平地式建築構造の厳格性などから高度な技術を要する“神殿”又は“聖殿”と考えられている。

 この聖なる集会所では後述する“仮面破壊儀式”がしめやかに行なわれていたと見られる

鼻・耳・口 鼻・耳

 集落遺跡の中心部に墓壙群が見つかり、そのうちの土壙墓などから合わせて土製の鼻5点・口2点・耳1点、合計8点が検出された。
土製鼻・口・耳には取り付け可能な紐通しの孔が開いており、この種の土製品は宮城県などでも発見されている。
いずれも極めて写実的であり、大きさも人間のそれとほぼ同じで仮面の部分と見られる。

 墓壙は南北2.2mを有する伸展葬と見られ、周縁には溝を巡らし川原石が詰まっていたと云う。
土壙の中は立石の礫群により空洞化され、遺体には扁平な石が2枚のせられていた等埋葬された人物は格別な身分の持主と云える。
土壙には土製の鼻3点が副葬され、直ぐ側の貯蔵穴から口2点・耳1点・鼻2点が出土したと云う。

 一ヶ所から鼻・耳・口と揃って出土したわけではなく、死者に被せた面というより、葬送儀礼に参加した人々が仮面を被って死霊になり代わったと考えられる。
仮面を被って仮装し、死霊がこの地に戻って来て、悪さをさせぬよう死霊の出入口を象徴する仮面の耳・鼻・口を切り取って葬ったと考えられる。

 仮面破壊の儀礼が行なわれる程の死者は、極めて異例で特殊な人物であったと見られる。

以下深鉢土器と壷、壷類、厳粛に装う注口土器そして神秘的な注口土器の順番に、特殊な用途に使われたと見られる土器類を紹介する。

遺跡を取り囲む台地の斜面には様々な遺物が捨てられ、層を成して積み重なって見つかり、これらの遺物の中にはこれら実用或いは祭祀用土器が混じっていたと云う。

 これらの厳粛で神秘的にも見える注口土器類も、“仮面破壊儀式”で活躍したかも知れない。

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