服部遺跡は南北に分流する野洲川を一本化する“放水路”敷設工事に伴い、昭和49〜54年の間、四次にわたる発掘調査の結果、縄文から鎌倉時代に及ぶ数百の遺構や約100万点もの遺物が検出された。
約12万uの調査面積は、遺跡の存在など予想もされない低地デルタ地帯であったが、地表下約2.5〜3.0mには弥生前期の水田跡が約2万uも広がり、その上層に総数360基を超える弥生中期の方形周溝墓群、更にその上には弥生中期〜後期の円形竪穴住居址、更に上には古墳時代以降の竪穴住居址・周溝状遺構・掘立柱建物群などが計四重にもなって検出されたと云う。

当遺跡の推定面積は60万u以上に及ぶ広大な遺跡と云われている。

近江最大の一級河川・野洲川は古来暴れ川として知られ、数限りない洪水による災害に見舞われた証左として、時代毎の大きな変遷を裏付けていると云える。

低地での縄文遺跡の確認、約7万uにも及ぶ日本最大級の方形周溝墓群、全国的にも類例の少ない弥生前期の水田址などが特記される。

平地で見つかった縄文晩期の遺跡は狩猟・採集の生活から脱皮し、弥生時代に移行する途上にあったことを示している。

水田跡

 稲農耕開始時期の耕作状態が観察できる。
大陸や朝鮮半島の影響の下に成立した弥生文化は、西日本では前期に広がったのに対し、東日本では中期以降に遅れて成立した。

 水田は約280面にも及ぶ広大な面積で、葦・水辺の雑草などを刈り取った後、土を入れて平坦地を造り、水をはり・“畦”を設けたと見られている。

箱式木棺

 壙の中央に埋葬されていた木棺は、底板・蓋板・側板2枚・木口板2枚の計6枚の板材を組み合わせたもので、底板は長さ2.1m・幅0.8m・厚さ15cmと極めて厚く、棺内にはリン分を検出したが、人骨・副葬品などは皆無であったと云う。
又底板には朱が付着してとも云う。

 方形周溝墓は四角形に溝を掘り巡らせ、中央の台状部分に死者を葬る弥生時代独特の埋葬形態。
当遺跡で見つかった方形周溝墓の埋葬箇所は一ヶ所が多く、必ずしも家族が順次埋められていない点に大きな特徴がある。
服部では従来説かれていた“家族の墓”という定説が該当しない点は注目に値する。

柱状石斧 扁平石斧

 陸系磨製石器類のうち、木を削ったり抉ったりする柱状片刃石斧や木の表面を平滑にする扁平片刃石斧など木材を加工する、大陸から伝えられた石器が特筆される。

 当時は石製工具が中心で、僅かな鉄製工具と合わせ、木製農具・食器・容器や高床式倉庫などの建物を作るために活躍したものと見られる。

 当遺跡からは石器類が豊富に出土し、当時の木工技術の高さを裏付ける遺物として注目される。

磨製石剣

石棒

 面を丹念に研磨精製した石剣は8点も検出され、銅剣・鉄剣を模したとされる。
実用武器として使われたかも知れない。

 地元の石材を使って丹念に仕上げられた石棒は祭祀用と考えられ、飛騨地方から伝えられたと見られている。

土製鋳型

 めて珍しく、貴重な資料として特記され、服部地方で銅剣か又は銅鐸が鋳造されていた証左と云える。
服部周辺では銅鐸が数多く出土している。弥生後期には石器が姿を消し、銅・鉄製品が普及し、貧富の差・階級社会が出現する。
そしてやがて共同体間の抗争・緊張関係へと発展して行く。

 服部遺跡は工事中の発見という不幸な事態の下で、急遽発掘調査が進められたが、野洲川の川床に埋没している服部集落の解明には程遠いと云える反面、川床下に永久保存された文化財が救われた点はせめてもの慰めではある。

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