飯田市は東を伊那山脈・西は木曽山脈の連山に挟まれ、その中央を天竜川が南下し、所謂伊那谷の南半分に位置し、複雑な段丘地形に起因した豊かな自然の恵みに囲まれている。

 豊かな自然環境は約3万年前の後期旧石器時代から人々の定住を可能とし、市内各所には550ヶ所余りの縄文・弥生遺跡が確認されている。

 以下縄文時代の代表的遺跡を紹介する。

大明神原遺跡

 明神原遺跡は縄文中期の集落で、3年間に及ぶ発掘調査の結果、竪穴住居址39棟・狩猟用の落し穴を含む土壙約800基・集石炉3基などの遺構が検出された。

 又イノシシ・二ホンジカなど大型動物捕獲用と見られる落し穴が40基ほど見つかり、深さは1.5mほどにも達する。

大明神原遺跡 大明神原遺跡

 真左が伊那山脈を、右が木曽山脈を望んでいる。
眼下に見える道路建設に先立つ発掘調査で見つかり、伊那山脈及び木曽山脈をそれぞれ背景に、伊那山麓に流れる天竜川を望む高台の尾根に位置している。

以下順番に台付土器・把手付深鉢土器・土偶などに注目していただきたい。
いずれも祭祀にまつわる土製品で、厳しい自然とかかわりを持ち、伊那谷に生きていた飯田縄文人にとって祭祀は祈りであり、生きていく上で必要不可欠なセレモニーであったと見られる。

真の一つは自然の脅威を鎮め敬う献納物の容器に見える、又顔面のような把手を持つ土器か、或いは土偶にも見える。

 把手付深鉢土器は、持ち運びに便利なように実用性を加味したセレモニー用具に見えるが・・・・。

 土偶は十字架をイメージしているように見え、或いは両手を拡げ踊っているようにも見えるが、左足の一部を欠損しているもののほぼ完形で検出されている。

増野新切遺跡

 野新切遺跡は天竜川右岸の扇状地上に立地し、昭和47年中央自動車道建設に先立つ発掘調査で発見された。

 縄文中期後半を中心とする拠点的集落で、78軒の竪穴住居址・一ヶ所に集中する土壙群などの遺構が検出された。

釣手土器

 手頂部に突出部があったらしく破損しているが、高さ38cm・底径19cm前後と最大級のランプ用途土器。
この土器は意図的に破砕され、2ヶ所に分けて置かれ、一方には何かを封じ込めるように礫が乗せられていたと云う。
この地方固有の特殊な意図・慣習があったと推測される。

   渦巻文その間に三叉状文を配し、それらを取り囲んで沈線を施している。
表面は磨かれ、整形された仕上がりの精緻な土器として注目に値する。

 当遺跡からは釣手土器以外に土偶・石棒など祭祀用具が多数出土し、特に石棒は家の内部に立てられ、集落の中心的役割を担う家とも見られるが、祭祀をことのほか必要とした集落と考えられる。

典型的釣手土器

 手土器はランプの役割を果たした土器と考えられるが、その分布地域は甲信越地方と関東地方の一部に限られ、又出土数も少ない。
飯田市内では縄文中期後半の釣手土器が多く出土していると云う。

以下市内の縄文遺跡より出土した、選りすぐりの2タイプの釣手土器を紹介する。

垣外遺跡の顔面付釣手土器 栗屋元遺跡の釣手土器

 面付並びに顔面なし釣手土器の造形・文様など、いずれを取っても独創的で、個性豊かな芸術作品として特筆に値する。

 分布地域が山岳地方に多く、山岳信仰の象徴的用具とも考えられる。

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