池上曽根遺跡は大阪和泉市池上町から泉大津市曽根町にかけて、南北約1.5km・東西約0.6kmの範囲に広がる、総面積約60万uと全国的にも巨大な、弥生時代全般にわたる環濠集落と見られている。
 本遺跡の背後には、和泉山脈より派生したなだらかな信太丘陵が連なり、大津川流域に営まれていた弥生集落が結集して、巨大集落が生まれたと云われている。
 佐賀県吉野ヶ里、長崎県原の辻、奈良県唐古・鍵、滋賀県下之郷各遺跡に次ぐ、
全国で5番目の規模を持つ弥生集落遺跡と云われている。
 昭和29年以降、宅地開発、府水道・府道・国道などの敷設に伴い断続的に発掘調査が積み重ねられ、本集落の最盛期を迎える紀元前1世紀後半には、約100棟以上の住居が存在し、人口は少なくとも500人以上と推定されている。
 巨大な掘立柱建物を中心とする「祭祀の空間」、金属器製作を含む「生産工房区域」、そして環濠に囲まれた住居密集地域などが区画整理され、将に「弥生都市」を彷彿とさせる。

(いずみの高殿・やよいの大井戸・立柱)
 和51年に集落の中心部約11.4haが国史跡に指定され、この史跡公園には平成11年から13年にかけ、合計7棟の建物が復元され、「弥生都市」とも呼ばれる、約2000年前の繁栄を垣間見ることが出来るようになった。

 “神殿”と見られる掘立柱建物の高殿復元には和泉市三国山のヒノキ50本を使い、神殿手前の屋形内大井戸の井筒にはクスノキの大木を刳り抜いたと云う。

“いずみの高殿”は南北約7m・東西約19.2mの巨大建物で、独立棟持柱を有する。

 これらの建物の他、サヌカイト剥片埋納遺構や土器埋設遺構なども復元され、男女に見立てた2本(うち1本が写真右側に見える)の立柱と共に、再生と繁栄を象徴する、約2000年前の“祭祀の空間”を演出していると云える。
これら2本の“聖なる立柱”には北に男性の木を、南には二股に分かれた女性の木柱を配し、豊作を祈る行事が行われたと考えられる。

(掘立柱建物の柱根)
 型建物を支えた26本の柱のうち、直径約60cmもある17本の根元が残っていたと云われ、そのうちヒノキの柱は、絶対的な年輪年代法により、紀元前52年に伐採されてことが判明した。

 それ以前の土器編年による相対年数を約100年も遡ることになり、本集落こそ“魏志倭人伝”に記す百余国のうちの一国であったと考えられ、やがて動乱期を経て卑弥呼の時代が始まった。
弥生中期の年代が100年も遡ることになると、邪馬台国が古墳時代に入る可能性が指摘される由縁でもある。

 この地域は地下水位が高いため、一般的には残りにくい木製品・植物遺存体が数多く残存し、史跡・集落の解明に大きく寄与した。

 又大型建物の柱や大井戸の木枠は当時の木材加工技術の高さを物語っている。

(絵画土器)
 妻屋根を持つ高床式建物を描いた絵画土器。
当地に復元された大型掘立柱建物は、この写真の絵画土器を含む二つの絵画土器をもとに設計され、壁のない切妻屋根の建物として復元されたと云う。

(大型刳り抜き井戸)
 回り約7m・直径約2m・深さ約1.3mと、生活用としては大きすぎることから、大型掘立柱建物と共に祭祀に深くかかわっていたものと見られる。

 クスノキを使っていることも祭祀用の可能性が高いと云う。

型御殿・大井戸周辺には、“手工業生産の工房”のような小型建物のほか、土器・石器を埋めた“祭りの場”やニ条の環濠及び環濠に囲まれた復元円形住居などが見つかっている。

以下文字列にポインタをおくと、池上曽根集落を構成する上で不可欠な諸施設・環濠などに出会えますよ!

 “手工業生産の工房”のような小型建物及び水産物加工施設と見られる建物

 土器・石器を埋めた“祭りの場”であり、又一辺約1.5mと小さく深い竪穴からは網の錘やタコツボなどの漁具が大量に出土した。

 タコツボは40数個が一ヶ所に盛り上げて埋納・奉納されていたと云う。

 一つの環濠は幅2〜3m・深さ1〜1.5mほどと通常の深さ2〜3mのV字形と比較して浅いところから、治水及び集落の境界が目的であったと見られている。

 もう一方の本環濠は再三にわたり掘削を繰返していることから、防衛を目的としていたとの考え方もある。

かし弥生後期2世紀中頃には“倭国乱”を経て、集落は急速に衰退し、環濠も埋まり、集落は小規模ながら存続するが、地域の核としての地位は失われて行った。

 環濠周辺で見つかった夥しい数の竪穴住居は紀元前1世紀を境に、円形から方形に移り変わったと云う。
写真の復元住居は、直径約6mの大きな穴の上に4本の柱で支える屋根をかけている。

次に非日常・日常用途を問わず使われた木製品を紹介する。

 男根をイメージした木製品、鳥形木製品、液体を掬う道具及び液体を汲む用具の順番に紹介する。

 “和泉”の地名が表す豊富な地下水のお陰で、300点を越える大量の完形木製品が水漬けの状態で保存されていたと云う。

 特に男性器形及び鳥形木製品は農耕儀礼にかかわる習俗を伝える資料として注目される。
男性シンボル用具は再生と繁栄を願う心に通じ、又鳥形製品は穀霊・死者の魂を運ぶと考えられている。

れら木製品のほか動植物の遺物には、フグ・タイ・ハモ・タラ・コイ・アワビ・サザエ・クジラなど38種の魚介類や、猪・鹿・犬など陸上哺乳動物5種の遺骸が検出され、土器・石器類などを含む遺物の数量はコンテナ数万箱に及んだと云う。

 植物類では桃・小豆・真桑瓜・瓢箪・稲などの栽培種を含め食用種33種が見つかったと云われる。

池上曽根遺跡は国史跡に指定された後々でも、道路優先か文化財保護優先かの議論が繰返され、結局国道・府道とも路線内に遺構を保存することになり、砂・鉄板などで遺構を覆って保護した上で、道路を建設することになったと云う。

現在も11.4haに及ぶ史跡公園内の土地買収が進まず、公園整備が中断されている状態であるとともに、史跡公園外の文化財保護・保存についても、財政事情にも大きく左右され、現状のまま手づかずの情況に置かれている。
今後の進展を祈念しつつ、注目していきたい!

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