野長割遺跡は印旛沼南西、標高27mほどの台地上に所在する。昭和40年代には小学校の建設工事に伴い3度の発掘調査が行なわれ、更に平成13年2月以降土地区画整理事業に伴う発掘調査の結果、縄文後期から晩期の集落遺跡であることが判明。

 今回の発掘調査による最大の発見は、4基のマウンドを伴う盛土遺構が確認されたことであると云う。

 谷に沿って弧状に巡るマウンドの規模は最大のモノで高さ22m・幅35mほどあり、又最小のマウンドは高さ0.6m・直径20mほどと云われる。
盛土の下からは当時の谷地形が確認されたことから、佐倉縄文人が谷を埋めて造成していたことが判明している。

 盛土の中からは日常使われた土器・石器の他、非日常的な土偶・ヒスイ製ペンダント・石剣なども含まれ、又細かい炭・焼けた土や動物の骨粉なども見つかったと云う。

以下現在も続行されている発掘調査風景6コマを連続で紹介する。

 レンチを掘り起こして地層調査や遺構・遺物の検出調査が行なわれている真只中の調査状況が伝わってくる。

 よくよく観察すると地層の変化が分かるトレンチ、トレンチ底に土壙が見えるモノや小規模ながら貝塚も発見されている。

 貝塚の貝類は、主として河口などの汽水性の砂に棲息するヤマトシジミであることが分かる。
又この貝塚からはシカ・イノシシの骨なども良好な状態で出土したと云う。
貝塚は当時の周辺環境や食生活を如実に物語っていると云える。

今回出土した土偶そのT 土偶そのU

 年の発掘調査で検出された非日常的遺物の一つで、ヒスイ製ペンダント・石剣などの特殊な出土遺物を考え合わせると、何らかの祭祀場であったと見られる。

 更に盛土の規模が大きいこと、細かい炭や焼土が見つかっていること、1,000年前後の長期にわたって構築・利用されていることなどを考えると、長期間様々な祭祀・儀礼的行事が催されていたと見られる。

 今回のマウンドの配置をなす盛土遺構の発見は、現在までのところ他に例を見ないということで、盛土遺構を巡る今後の調査研究に期待したい。

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