門田貝塚

は、岡山県南東部の吉井川河口東岸の自然堤防上に立地する、弥生前期から鎌倉時代にわたる集落遺跡で、昭和60年に国史跡に指定され、平成元年には指定地の公有化が行われた。

 邑久町には本遺跡のほかにも縄文遺跡が点在するが、集落跡は見つかっていない。

貝塚公園 貝層表面 貝層断面

 成10年に現在の“門田貝塚史跡公園”が弥生時代の“門田ムラ”として蘇り、2棟の竪穴住居復元と共に当時の植生樹木が系統的に配植され、野外ミュージアムとして機能している。

 発掘調査当時に採集した貝層表面や断面が保存・展示されている。
貝層表面・断面から見て取れる通り、幅約4〜5m・深さ約1mの溝の中にハイガイ・ヤマトシジミなどの貝殻が、3回に分けて捨てられていたことが判明した。

次にハイガイ・ヤマトシジミなどの貝類、二ホンジカの骨などの食糧廃棄物の他、”門田式”壷、製塩土器そして石鎌の順番で以下紹介する。

類のほとんどが大形のハイガイで、他にハマグリ・カキ・ヤマトシジミなどが含まれ、イノシシ・シカ・タヌキ・鳥・魚などの骨も、弥生土器・石器と共に検出された。

 本貝塚ではイノシシがシカと比べて多く見つかっているが、いずれも幼獣は食べておらず、又骨の中には故意に割ったものがあり、骨の中の髄を取出して食べたと見られている。

これらの出土遺物から、当時の生活様式が稲作を中心として狩猟・漁労が盛んに行われていていたことが窺える。
魚介類は縄文時代と異なり、米穀類を補う副次蛋白源であった。
“門田式”土器は瀬戸内沿岸地方における弥生前期後半の標識土器として認知されている。
又多量の製塩土器の出土例は、穏やかで日照りに恵まれた気象条件が当時から塩田伝統産業を育んでいたと云える。


以下文字列にポインタをおくと、南国のゴホウラ貝製腕輪、骨角製装飾品そして石棒に出会えますよ!

 沖縄近海産のゴホウラ貝製腕輪の他、香川県産サヌカイト製石製品などの出土遺物は、海上交通を主とする交流・交易を物がっている。

 簪・針・ペンダントなど骨角製装飾品

 香川県産サヌカイト製石棒

骨角製装飾品・石棒の他に、イノシシの下顎に孔が空けられているものもあり、農耕・狩猟の「豊作・豊漁」を祈り・祀る儀式に使われたものと考えられる。

 稲作による食生活の安定は、精神文化面にも余裕・ゆとりをもたらしたものの、天変地変を憂い・備える伝統的精神文化はこのころには芽生えていたと思われる。

今回もご覧いただきありがとうございます。ご意見・ご感想をお聞かせ下さい。又のご来訪をお待ち申し上げます!