橿橿

橿原遺跡は昭和13〜16年にかけ橿原神宮外苑整備工事に伴い発見され、この時期既に約10,000uにも及ぶ広大な区域がほぼ全面的に発掘調査されたと云う。

 当遺跡の地形は、低い洪積大地が水草の繁茂した沼沢地となり、湿地帯へ半島状に突出した微高地に位置している。

 橿原縄文人は、湿地で守られた住居地付近に土器などの包含層が認められたこともあり、水辺に杭を打ち込んで洗場の用途に当てたと考えられている。

 東側の長さ約83m・西側が約100mから成る両包含層からは、土器・石器・石屑・獣骨類などが大量に検出されたと云う。

遺跡現場

 傍山東南麓の平地に拡がる縄文時代晩期・飛鳥・奈良時代を盛期とする遺跡現場。

 現在は野球場・陸上競技場などから成る市民公園として親しまれている。

中空土偶 橿原式土偶

 畿地方では珍しい土偶が140点余りも検出されている。
胴内を空洞にした中空土偶と表現が粗雑で粘土粒子が荒い粗製品。

 中空土偶はわずか2点で残りは扁平なモノで、乳部を垂乳状に表わし、腹部は凹めて表現し、又消化器官を示すところに特徴があり、東北・関東地方の土偶とは異なり、西日本独特の土偶様式と云える。

 消化器官が口から腹部を通って下がっている表現は、当時既に解剖学的知識を持っていたのではないかと見られる。

橿原式土器

 橿原式土器は、近畿縄文晩期の代表的地形名の一つで、彫刻的な刻線文を有する。

 橿原式土器は縄文晩期前半の近畿宮滝式土器に、東北の亀ヶ岡式土器が融合したことにより成立した土器形式と考えられている。

 青森県の亀ヶ岡式土器が東北地方から関東・東海・北陸から近畿に及び、橿原遺跡は西限端と見られる。

 又当遺跡からは亀ヶ岡式土器もかなり検出されたと云われ、東北・北陸地方との文化交流が窺える。

橿原式土製品

 形的に湿地条件に恵まれていたにも拘らず、木製品が検出されていないのはどうしてであろうか?

 低地生活環境下では食糧確保のため男性の行動範囲が広く、生活用具作りなど生活を守る役割は、橿原縄文女性に負担を強いられたのではないかと考えられる。
即ち日常生活用具づくりは、当時の女性が得意な土製品づくりにも及んでいたと考えられる。

石刀と石棒 打製石斧

 刀は刃肉の厚い蛤刃をなし、刃幅より肩部が細くなるモノが多く、全体の形は多様に見える。
権威の象徴であったと考えられる。

 又打製石器は、打ち欠き手法が極めて粗雑で、かつ実用に供せられていたためか、刃部が磨損したり、衝撃のために折損したモノが多く見られる。
縄文晩期の低地遺跡における生活必需用具として大活躍したものと考えられる。

 石器の材質は土地柄もあり、ほとんどが二上山のサヌカイト製であり、一部吉野川・紀川地帯に産出する岩石が利用されていたと云う。