草刈貝塚は市原市の最北部、村田川の河口から約5km上流に立地する縄文時代中期の貝塚遺跡。

 当貝塚遺跡は環状集落で、縄文中期の住居跡・土壙墓などの分布はかなりの広がりを持っているが、この当時3kmほど以内の周辺には、有吉北及び南貝塚・鎌取場台遺跡・南二重堀遺跡など中期集落群が確認されている。

草刈貝塚現場

 貝塚遺跡は約260,000uの台地上に旧石器から中世にわたる遺構が広がる広大な遺跡。

 「千原台ニュータウン」の造成・千葉急行線や道路建設に伴う発掘調査が1978年以降1997年にかけて断続的に行なわれ、多くの成果を得たと云われる。

 当貝塚遺跡で特筆すべき発見は、複数の住居跡から各々6〜7体の埋葬遺体と多種多様な遺物を伴う遺構が検出されたが、極めてユニークな発見と云われる。

 草刈縄文人の人骨分析の結果、平均的な縄文人や現代人より大きめの歯を持つ集団であることが分かり、これらの集団の広がり・子孫など更なる分析・研究が期待される。

以下当貝塚遺跡固有の多種多様な遺物を紹介する。

 写真の順番は先ずはアクセサリー類で、ヒスイ製大珠・滑石製首飾り・鹿骨製腰飾りなどのアクセサリーの他、有角石斧に代表される特異な石器。

 そして次に非日常的な土器3点と人面把手を紹介する。

 数の土器が出土した屋内埋葬遺構は、貝殻・獣骨・魚骨など通常の貝層と変わらない廃棄物を大量に伴っていたと云う。

 遺体は明らかに竪穴住居の軸を意識して埋葬されていたと云う。
同一屋内に身内を次から次へと埋葬し、それぞれが愛用した又は縁深い装身具・土器・石器など日常・非日常遺品を一緒に葬り、末長く同居していた習慣は、当時の埋葬観念を考える貴重な出土例と云える。

 前述した千原台地上に所在する他の4つの縄文中期遺跡群とどのように係わっていたのか、同じような埋葬形態であったのか或いは草刈遺跡だけの特殊な埋葬方法であったのか、今後の報告結果が待たれる。