北 海 道 釧 路 市 の 縄 文 遺 跡
釧路湿原周辺の台地上にある遺跡群は、旧石器時代は数ヶ所から縄文時代には250ヶ所ほどに飛躍的に増大している。 気候の寒冷化が急激に進んだ後期後半は遺跡がほとんど見られず、自然環境の悪化により他地域への移動・餓死などにより人口が激減したと見られる。
釧路地方の縄文遺跡は、日照に恵まれて見晴らしがよく、湧水も豊富で丸木舟を着け易い台地上に集中している。
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幣舞遺跡は昭和43年道路工事中に発見されたが、既に半分ほどが破壊されていた大規模な墳墓遺跡。
縄文中期・晩期・続縄文・擦文・アイヌ時代へと続く複合遺跡で、これまでの発掘調査で主に縄文晩期の住居跡4棟・墓壙103基などの遺構及び多くの副葬品を含む遺物が検出されている。 |
当遺跡は釧路川河口を北西に見下ろす標高20〜30mほどの台地上に所在する。 現在は公民館・図書館・駐車場などを有する、10,000uを超す面積に及ぶ。 墓壙は径1.2mほどの大型円形プランを有し、頭位南東の座位屈葬人骨なども見つかっている。 遺物の中にはバケツ2杯分相当のベンガラが出土し、墓壙内にベンガラを撒く風習は、縄文中期以来の伝統と見られる。
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石鏃・石匙・石槍・石錐・削器など大量の黒曜石製石器が副葬品として出土したが、原産地は北見・十勝地方と見られる。
独鈷石・舟形土器も豊富な副葬品に数えられ、これら以外にもイノシシの牙製腕輪・玉類なども含まれていたと云われ、叉墓壙内のみならず |
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緑ヶ岡遺跡は昭和34年から39年にかけ発掘調査が繰返された結果、縄文晩期の墓壙が60基ほど発見・調査され、釧路川流域におけるこの時期最大規模の墓域の存在が予想されたが、宅地造成優先のため残念ながら破壊を余儀なくされたと云う。 縄文晩期の墓壙のほか、擦文時代(6〜13世紀)の竪穴住居址群・アイヌ時代(13世紀〜)の砦址などの遺構のほか、旧石器・縄文・続縄文(約2,000年前〜1,500年前)・擦文時代までの長期間にわたる遺物が検出され、継続性に富んだ遺跡であることが判明した。 |
本遺跡は釧路湿原の東縁を流れる旧釧路川と旧阿寒川との合流点を眼下に見下ろす、標高20m前後の釧路段丘端に位置する。 幣舞遺跡はここから下流約1km辺りに所在する。 ここからは釧路川河口地帯・釧路湿原の低地はほとんど視野に入り、遠く北方には阿寒連峰も眺望できる。 墓壙の大半は円形・楕円形を呈し、頭位南西の屈葬で、中には大型角礫の配石を伴うものも確認されている。
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墓壙の副葬品として発見された、均整の取れた“亀ヶ岡式壷”で、肩の部分の線書文様に加え、写真ではハッキリ確認できないが、“エ”の字風の部分とこれが斜めに崩れ・組み込んだ意匠が規則的に連続している。 ベンガラで塗られ、表面は丁寧に磨いているため、現在でも光沢が見える傑作で、祭祀用に使われた後、副葬されたと見られる。 一方舟形土器は“幣舞式”で、同じく副葬品として見つかっている。 |
墓壙には1,000個以上の貝製平玉を身に着けていたり、大型の琥珀製玉、石製・土製飾玉を着けた被葬者は身分の高い特別の存在と考えられる。 アジアの原始宗教であるシャーマニズムに関連し、その場合飾玉などを胸に吊り下げて神の魂・悪霊払いの護符として身に着けていたかもしれない。 琥珀石は釧路地方では産しないので、何処から移入したのか興味深い。 |
多量の黒曜石製石器類が副葬されており、中には石鏃100個以上が副葬された例など、ここにも被葬者の身分差か、或いは功労者としてのシンボルなのか格別の処遇が窺える。 墓壙を掘る際、石斧が使われたと考えられ、使用後は土器にも認められているが、石斧を半折したり、傷付けたりして副葬したと見られる。
直径2.25m・短径1.8mの墓壙に蹲踞姿勢で8人の遺体が合葬された例や、他に3体合葬の例などが検出されているが、ここでも多量の副葬品や人骨にベンガラが散布されていた。
当時の精神文化・社会構造など |