直(みのう)貝塚は縄文時代中期後半から晩期前半にかけて営まれた集落で、館山自動車道建設に伴う発掘調査で発見され、対象面積9130uに及ぶ調査は平成13年4月現在も続いている。

 これまでの発掘調査で縄文時代後期の環状盛土遺構・斜面整形遺構・貝層・竪穴住居址・土壙の他、多種多様な遺物が発見されている。

 特に環状盛土遺構が、縄文時代の土木工事跡として注目を集めている。

 当貝塚は房総丘陵の標高約100mの山中に位置し、畑沢川と小糸川上流域に当たる。
三直ムラ縄文人は、これら2つの河川を利用して東京湾にまで足を延ばし魚介類を持ち運んだと見られる。

環状盛土遺構 発掘風景

 遺構の規模は外径約140m・盛土幅10〜20m・最大高さ約1.8mで縄文後期中頃から晩期前半まで約500年間にわたり営まれたいたと云う。

 当貝塚の環状盛土遺構は、単純に土を盛り上げて造成したのではなく、自然の地形を削ったり、盛り上げたりして造り、遺構の維持管理はムラ人によって為されていた点に特徴が見出される。

 盛土に囲まれた中央の部分は径30mほど低く窪み、この窪みからは遺構・遺物が見つからず、何もない状態に維持されていた点は特筆される。

 要は窪地を取り囲むように環状盛土遺構が巡る集落として特徴付けられる。

大型住居址

 土遺構の南東部沿いに径約11mの大型住居が見つかり、少なくとも4回以上にわたり建替えが行われている。

 他の住居に比し竪穴の掘り込みが深く、中からは異形台付土器・耳飾りなど祭祀用遺物が検出されている。

一般住居址

 土の内部からは住居跡が数十軒見つかり、縄文後期前半の住居は丘陵の東側に面した縁辺から尾根状の斜面に分布している。

 直径5〜6mの円形が中心だが、四角形や不定形のモノも混在し、建替えが繰り重なると共に同時期の住居址の姿がハッキリ確認できない状況。

東側貝層

 塚の北側に面する丘陵上平坦部縁辺に位置し、貝層の厚さは60cmほどで薄く、小規模な貝層と云える。

 貝層の時期は縄文後期中頃に限定されていると云う。

貝類

 マグリ・オキアサリ・イボキサゴなど砂底に生息する貝が多く、他にもサルボウ・ツメタガイなど泥底の貝も見つかっている。

 獣骨・魚骨類では、シカ・イノシシ・マダイ・クロダイ・スズキの他フグの骨が多い点が際立っていると云う。

 以上三直貝塚の立地・計画的に造成された盛土遺構及び住居址・土壙などのインフラとの関連で、特筆注目されるべき点が多種多様な非日常的遺物の検出である。

 以下それら非日常的遺物のほんの一部を紹介する。
土偶・土版・中空土偶・石棒・異形台付土器・注口土器・アクセサリーの順番に移り変わります。

 状盛土遺構・大型住居址・窪地の存在など聖なる環境整備に相対して、聖なる遺物である土偶・土版・石棒・異形台付土器・注口土器などを配した神聖な巨大空間が想起される。

 環状盛土遺構は当時の土木工事跡とは云え、現代と異なり聖なるインフラ整備に多大な労力・時間をかけたと云える。