野辺地町は陸奥湾に面して細長い弧状を呈し、周囲は南西に奥羽山脈の北端部に当る烏帽子岳と、南から北方の高位段丘の山間に包囲された地形を有し、下北半島の、喉の付け根の位置に所在する。

 烏帽子岳から流れる二本の川が平野部で合流し、又高位段丘の山間からも小河川が筋状に流入し、各河川には河岸段丘が発達し、これらの段丘上に遺跡が集中している。
高位段丘は標高70〜130mの緩傾斜を成し、有戸鳥井平・向田などの縄文遺跡はこの段丘上に立地している。

 現在町内には120ヶ所の遺跡が確認されているが、海岸地域では開発事業と海岸の浸食により、又山間地域では農地開拓などにより、削平・消滅した遺跡が数多いと見られている。
これらの遺跡のうち、縄文時代は後期が60%を占め、又全遺跡の62%は時期を重複する複合遺跡であることが確認されている。

 以下縄文時代の代表的遺跡・遺物を紹介する。

有戸鳥井平遺跡

 戸鳥井(たい)遺跡は県道に沿った東方約1.7kmにある、野辺地町斎場西側に位置する。

 当遺跡は東方山地に源を持つ二つの小河川が合流する段丘面上・標高約35mに立地している。

有戸鳥井平遺跡の発掘現場

 在も工事中だが、高速道路建設工事に伴って発見され、縄文後期の土器・石器類が出土した。

 小河川合流後の河川は堆積が進み、現場周辺は現在水田として利用されている。

板状立脚土偶表面 板状立脚土偶裏面

 さ32cm・肩幅17.5cm・胸部の厚み2.0cm・重さ1.3kgの板状で、自力で立つので板状立脚土偶と称された。
両肩に孔が貫通しているので、ぶら下げて使用されたと見られる。

 縄文後期前半の板状土偶としては最大級の大きさで、頭部・胸部・腹部・両脚の五つに割られていたが、接合すると欠けた部分はなく、完形品は実に珍しいと云う。
顔の頬と口下には刺青と見られる文様、身体部にも衣服を表した線刻・刺突文様があり、下腹部には女性器が表現されている。

 土偶裏面では頭髪が結われていることに注目したい。

向田遺跡

 田遺跡は国道から分岐し南東方向へ通ずる農道沿いの約0.7km地点にあり、標高約30mの中位段丘上に立地している。

向田遺跡

 地の西南部の平坦地にあり、遺跡の大半は削られていたと云う。

 採集した土器から、縄文早期・前期・後期へと長期間にわたる集落であることが判明した。
又石鏃・石匙・石錘など各種石器が大量に出土している。

縄文漆器

 の超薄型木製容器は、長さ約13cm・幅8cm・深さ約3cm・縁の厚さ約3mmで、ほぼ完全な形で出土したが、これほど薄いモノはごく珍しいと云う。

 縄文前期末(約5,000年前)の木製容器と見られ、楕円形で黒色、縁を丁寧に削って整形しているほか、表面には漆が塗られている。
石器を使って刳り抜いた作りは精巧で完成度も高く、全国的にも高水準の木工技術を持っていたことを示す貴重な発見と云われている。

その他の縄文遺跡

子沢遺跡は二本木川の左岸、標高20〜29mの丘陵上に位置している。

 山林を走る農道の切り通し斜面には住居址が数ヶ所確認されたと云う。

ナイフ型石器

 り通し斜面からは、野辺地町内では大変珍しい旧石器時代のナイフ型石器が採集され、一躍注目を集めたと云う。

寺ノ沢遺跡は野辺地町林営署周辺・東西約300mが推定範囲で、標高は22〜30mに位置し、早くから宅地開発が進み、遺跡がかなり破壊されていると云う。

 採集土器は縄文前期の円筒式土器が大半を占める。

石匙など 大型石槍

 匙・大型石槍のほか、多量の石鏃・石錘などが出土している。
多くの遺物は地元の郷土史研究家が寄贈されたと云われる。

槻ノ木遺跡は近沢川河口から南西へ約1km、近沢川右岸の段丘上・標高30〜60mほどに位置している。

 昭和55・56年の発掘調査の結果、縄文前期中葉から中期・後期・晩期・弥生に至るまで長期間にわたり営まれた複合遺跡であることが判明した。

板状土偶

 状土偶のほかにも円盤状土製品・鐸形土製品などが検出されていることから、祭祀儀礼を必要とした集落であったと考えられる。

 野辺地町は遺跡の所在確認が困難な山林地に、遺跡立地条件を備えた地形が多く、今後の開発事後によっては大規模な新発見の可能性を秘めている。

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