大田原市は関東平野の北部・那須連山の麓、起伏のない広々とした果てしない平野に位置し、北は福島県・東は茨城県に接した緑豊かな自然景観に恵まれている。
辺り一面に那須野が原が広がり、多くの野鳥をはじめとする自然環境や民間牧場が点在する牧歌的雰囲気などにも恵まれている。

 大田原の地に人々が住み始めたのは、今から13,000年ほど前・旧石器時代に遡り、縄文時代には長者ヶ平・湯坂・平林眞子・長峰山・縄落などの大規模集落が営まれていたと云う。

ここでは長者ヶ平・湯坂・平林眞子の各遺跡を紹介する。

長者ヶ平遺跡

 長者ヶ平(ちょうがだいら)遺跡は乙連沢東方の丘陵上にある広大な遺物散布地にあり、栃木県北部・那須野が原扇状地上の標高約230mの残丘面に所在する、縄文中期・後期の典型的集落跡として知られる。

 半径約250mの半円状に豊富な遺物が散在し、その外縁位置から大量の土器が詰まった土壙が見つかっている。 

遺跡現場 遺跡現場U

 つての畑地が現在では大部分が開田され、遺跡地は破壊されてしまったと云う。

 本遺跡からの出土品の種類は豊富であり、多様な土器のほか石器では石鏃・石匙・石皿・叩石・石斧などが確認されている。

火炎系土器 同U

 潟地方に始まった火炎型土器の土着型で、土壙内に生活のゴミとして投棄されていたと見られる。

 縄文中期の後半、栃木県をはじめとする関東地方では、集落内の特定域に食糧貯蔵用の土壙を作り続けたが、奇妙なことに使用しなくなった土壙に土器などを使い棄てる慣行があったと見られている。
口径約1.3m・深さ約1.4m・底径約2.0mの大型土壙からは16個体の土器が出土したと云う。

 土器以外では、石鏃・石匙・石皿・石錘・石斧などが使い棄てられていた。

湯坂遺跡

 坂遺跡は北金丸地区北東の白坂丘陵上に位置した、縄文中期を中心とした集落遺跡。

 昭和32年から38年にかけて、道路改修工事に伴い発見され、住居址と袋状土壙などの遺構のほか、土器・石器類が発掘された。

貝塚現場 周辺環境

 在は雑木林になっているが、昭和36年に市文化財史跡に指定された。

 口径約1.2m・底径約1.5mの袋状土壙からは、多数の完形土器と大量の土器片が出土したと云う。
ここにも使用しなくなった土壙に、使用しなくなった土器類を使い棄てる慣行が見られたと云う。

以下阿玉台式土器2点、加曾利E式土器及び石皿と叩石・多孔凹石・凡字型石器を順番に紹介する。

出土器の状況から、阿玉台式から加曾利E式へ移行する時期と見られる。

 当地では一般的に使用されていたと見られるが、写真のような“変形石斧”の工夫・考案は、越冬用の貯蔵庫として土壙の多用ニーズに対する、効率的土掘り起こし用として、必要不可欠な道具であったと考えられる。
石器類では、これら以外に石鏃・石匙・石錐・石斧などが出土している。

平林真子遺跡

 平林真子(ひらばやしまご)遺跡は平林公民館の北側から東部にまたがり、昭和39・40年の二回の発掘調査結果、縄文中期後半から晩期にかけての集落跡であることが判明した。

 敷石住居跡・配石遺構などの遺構のほか、阿玉台式・加曾利E式などの土器や土版・土偶、石鏃・石斧・石皿・叩石など多数の遺物が見つかっている。

遺跡現場 敷石住居跡

 遺跡現場は東西2区に分かれているが、東方約300m辺りに市街地より流れる善勝川が蛇尾川に合流する地形を成す。

 床面に平らな石を住居内全面に敷いた円形の住居跡は、この時期東京・神奈川・埼玉を中心に西関東から甲信越地方に分布するが、栃木県下では珍しい発掘例と云われる。
叉敷石住居には不整円形や矩形、一部にのみ敷石するモノ、石囲炉が作られているモノなど多様にわたっている。

 本遺跡も市指定文化財として、敷石住居跡が保存されている。

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