迦堂遺跡は昭和55・56年に中央自動車道建設に先立ち、延べ2万人以上の人々が参加して発掘調査が行なわれ、先土器・縄文・古墳・奈良・平安各時代にわたる複合遺跡であることが判明。

 甲府盆地の東部、御坂山系の京戸川扇状地に位置し、ここでは約15,000年前の先土器時代から人々の生活が始まったと見られる。

 当遺跡の出土品には、復元土器約1,200点・石器約15,000点・土製品約3,000点、特に土偶が1,100個以上などを数え、国の重要文化財に指定されている。

遺跡現場

 在は博物館を含む遺跡公園として保存されている。

 釈迦堂ムラでは縄文早期・前期・中期・後期の約2,500年にわたり255軒の住居址が発見されている。
早期の住居は楕円形、前期は隅の丸い方形で地床炉を持ち・柱は4本の切妻風、中期は円形・太い柱は4〜6本で上屋を支え・炉は石囲炉など時代の変遷を追うことが出来ると云う。

 当遺跡の特徴は、大量の土偶と大量の大型土器の出土にあると云える。

 この2点について以下紹介する。

縄文中期土偶 中期土偶U

 梨県の縄文中期土偶出土数は全国一を誇り、その約半数は釈迦堂土偶と云われる。

 これだけ大量の土偶が揃うと、笑い顔・泣き顔・怒り顔・ビックリ顔・とぼけ顔・つり目・垂れ目・キョロ目・オチョボ口等々あらゆる表情が見られる。

 又土偶をジックリ観察すると、髪形・服装・装身具など縄文人のファッションが見え隠れする。

 一方X線で土偶の作り方を調査したところ、粘土塊をつなぎ合わせる方法・一つの粘土塊から頭・手・足を引き伸ばす方法・木の芯に縄を巻きつけ粘土を被せる方法・土器と同じように粘土輪を積み上げていく方法というように4通りの製作法が判明したと云う。

 釈迦堂土偶は多くの縄文文化について語りかけている。

 縄文土器は、縄文早期末から後期初頭まで約2,500年という長期間にわたり全体で1,200個以上と全国でも有数の出土例を数える。

 人一人では持ち上げられない大型土器の数々で、ドングリなどのアク抜きやイモ類を大量に茹でるためには大型土器を必要としたと見られる。

 アク抜きの技術が確立され、安定した定住食糧が確保できたのは縄文中期頃で、祭祀用装飾土器などと共に土器の器種・文様などは大きく変容を遂げ、縄文人の豊かな精神文化の発展を裏付けている。

 特に土器に描かれたモチーフは、人物・動物を表現したモノ、垂線・渦巻線で器面を埋め尽くしたモノなど縄文中期の関東中部地方一帯には、立体的かつ豪快な装飾が際立っている。

土器を通じた縄文人の世界観は、精霊崇拝など呪術的霊感を覚えると共に、自然の恵みに包囲された森を象徴する縄文文化を彷彿とさせる。

釈迦堂ムラの森を代表する植物は、花粉などからドングリ類の他にエゴマ・ニワトコ・サルナシ・ヤマブドウ・キイチゴ・ヤマグワ・ゴボウ類など数多く見つかっている。

特にニワトコ・ヤマブドウなどは、酒造りに大いに関連があったと考えられている。

縄文植物を追うだけでもロマンは尽きない!