下船渡貝塚は大船渡湾西側の飛定地山から張り出している丘陵の傾斜地に位置する貝塚で、昭和9年に国史跡に指定された。

 昭和36年の発掘調査では、海に面した斜面及びその下部から豊富な遺物が出土し、貝層は厚い所で60〜120cmにも及んだと云う。

 遺物には土器・石器のほか、釣針・ヤス・離頭モリ・貝輪などの骨角器が110点、成人骨・幼児骨・家犬の骨・甕棺などが検出された。
出土した土器編年から縄文後期中葉から晩期終末にかけての貝塚と見られる。

下船渡貝塚現場 高20mほどの丘陵斜面からは写真のように大船渡湾口が望め、周囲には荒地・畑地が広がる。大船渡市を含む気仙地方では縄文晩期に集落が増加するが、次第に海から遠ざかって山間部での分布が密になり、貝塚の数が減少して行った。
残された海浜集落では骨角製漁労道具が極めて精巧になり発達することから、専門漁労集団が生き残ったと見られ、夏には湾口に迷い込んだマグロの群れを狙い・捕獲できるほどレベルが高かったと考えられる。

イヌの骨

 骨付近から埋葬された、縄文晩期の家犬の骨で、人間と同じように墓壙に埋葬されていたと云う。
イヌが家畜として大船渡縄文人と行動をともにしていたことを物語っている。

 イヌは縄文早期から既に飼われていたと見られ、東北地方では中型犬タイプが一般的であったと考えられている。

鹿角製垂飾 文晩期には縄文文化が最高潮に達し、写真のような鹿角製ペンダントの完形品はその証左と云える。
晩期独特の入組んだ、巴文のような文様を丹念に削り込み、両端の側面から紐孔を通し、胸元に垂れ飾っていたと見られる。辺境の大船渡漁村でも時代の流れに違わず、華やかな造形文化を享受していたと云える。

石棒・石剣

 自然の中に生き延びた大船渡縄文人にとって、死や台風・地震などの自然災害への恐怖におののき、超自然の力に頼り、祭祀儀式が頻繁に行なわれていたと考えられる。
石棒・石剣など呪術道具から当時の精神文化が窺える。

 気仙地方には36ヶ所の貝塚が集中しているが、貝塚は神聖視した場所であり、出土遺物は当時の精神文化・造形文化を如実に物語っていると云える。

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