下関市内の縄文遺跡は、海岸線の直ぐ側まで中国山地が迫る響灘沿岸に所在する平野の中で、最も広い綾羅木平野は東西約2.8km・南北約0.8kmの広さがあり、その中で綾羅木川と梶栗川の流域に分布する。

 縄文前期には神田・梶栗浜・延行条里などの遺跡があり、中期は神田遺跡・潮待遺跡が挙げられ、又後期から晩期にかけては潮待・延行条里・秋根・六連島などの遺跡が見つかっているが、いずれも出土遺構・遺物は少なく縄文時代の状況は不明な点が多いと云う。

 そのような状況の中で、以下神田遺跡と潮待遺跡を紹介する。

神田遺跡

 田遺跡は響灘に面した標高約5〜6mの海性砂堆・海岸段丘に立地し、現在の海岸線から約400m奥部に位置する。

 昭和45年から53年まで6次にわたり断続的に発掘調査が行われ、縄文前期から後期にかけての遺跡であることが判明。

神田遺跡現場 神田遺跡現場

 ラウンドの背景に広がる中国山地をバックにした、下関工業高校の校舎改築に伴い発掘調査が行われたが、それ以前から遺物採集が続けられ、神田貝塚として知られていたと云う。
発掘調査の結果、貯蔵穴と見られる土壙11基、集骨土壙3基では30歳前後の男性骨と2歳前後の幼児骨2体が見つかり、又貝塚・柱穴なども検出された。

縄文前期土器

 堆に堆積する包含層から出土したが、縄文土器の大半は前期と後期の九州系と中部瀬戸内系のモノと云われる。

 土器の他には石鏃・石錘・叩石・石斧・石匙などの石器類、板状土偶や骨製ペンダントなどが検出されたと云う。
この遺跡からも九州と瀬戸内文化が交錯した状況が窺い知れる。

潮待貝塚

 待貝塚は響灘沿岸の弧状海岸線から約500m東に入り込んだ、標高約5mという低い洪積段丘・砂堆上に立地する。

 昭和25年地元銀行の新設工事に伴い発見・発掘調査され、昭和36年には第二次追跡調査が実施され、縄文中期から後期の貝塚遺跡であることが判明。
三層の砂層の堆積が確認され、幅約80cm・深さ約95cmの縄文後期初頭の溝状遺構及び交差する形で幅約52cm・深さ約54cmの後期中葉の溝状遺構が貝塚と共に検出されたと云う。

 二条の溝状遺構は畑作に伴う遺構と想像されるが実態は不明。

潮待貝塚現場

 在は住宅地となっており、遺跡の実態は不明のまま消滅している。

 当時の調査では縄文後期を中心とした、九州と中部瀬戸内風の土器をはじめ、石器類・貝製品・自然遺物などが検出されたが、石器は少ないと云う。

以下順番にイノシシの骨、ウニの毛とフグの骨、 貝製腕輪そして土製耳飾りと土錘を紹介する。

土遺物の中で、動物遺体はイノシシの他シカ・イヌなど陸棲動物、タイ・フグ・エイなどの魚類、アサリ・ハマグリ・オキシジミ・アワビ・サザエ・カキ・ヤマトシジミなど海水性貝類等々が見つかっている。

 貝製腕輪・土製耳飾りなどの装身具が検出されているが、断片的で社会的実像を想い巡らせるほどではない。

 当時のことであり調査が不十分なまま、残念ながら開発優先により遺跡は消滅してしまった

今回もご覧いただきありがとうございます。ご意見・ご感想をお聞かせ下さい。又のご来訪をお待ち申し上げます!