海道では縄文早期から中期までの間、明瞭に区画された墓域は見当たらないが、後期になるとストーンサークルや周提墓として住居区域とは離れた場所に墓域を設けるようになった。


しかし晩期には構造的に区画された墓域は無くなってしまったと云う。

縄文後期には家族所帯も増加し、原始的ムラが構成され、村長的リーダーが家族の意思をまとめ墓地区域など、ムラ全体にかかわる事業を敢行していたと考えられる。
特に自然の脅威と対峙する中でもたらされた“畏敬の念”を操作したシャーマンなどが精神的リーダーシップを発揮したと考えられる。
社会的階層が形成され、集団的機能が果された故に、ストーンサークルや共同墓地的周提墓が構築されたと見られる。

 この時期東北地方の文化的影響を強く受けたことから、墳墓の在り方についても東北地方と密接な関係があったと考えられる。

以下当地縄文後期の墓地区画の在り方・構造などを紹介する。

朱円ストーンサークル

 円ストーンサークルは(環状列石)はオクシベツ川流域にあり、縄文後期に朱円周提墓に先立ち造営され、中央に大きな立石があり、発掘調査の結果、サークル中央付近からは火を燃やした跡・木炭と共に焼けた獣骨の破片・炭化物などが一緒に検出された。

 焼けた獣骨の中にはクマ・エゾオオカミ・エゾシカ・海獣などが確認された一方で、墳墓の痕跡が見つからなかったことから、ストーンサークルは墓地ではなく祭祀的な場所と見られている。
成獣などの収穫があった際など、ストーンサークル周辺に集合し、収穫を祝い合ったかもしれない。

環状列石 元されたストーンサークルは、そのままの状態で現在の知床博物館脇に移設されたもので、円形の配石を連鎖状に円形に巡らして造ったと見られる。
立石のある中央からはベンガラも見つかったと云う。
ストーンサークルは北海道道南・噴火湾周辺・道北部・道東部には見られるが、道中央・日高地方・釧路地方では見つかっていないと云う。局地的な祭祀用遺構と云える。

朱円周提墓

 円周提墓はオクシベツ川流域の台地上にあり、縄文後期の墳墓群で、石組の代わりに土提を円形に巡らし、内側に集石や立石を持つ墳墓の一種として確認されている。

 本周提墓はストーンサークルに次いで登場しているが、道内では石狩低地帯南部に集中し、道東では斜里・標津町でしか見つかっていないと云う。
東北地方・道南部地方では発見されていないことから、ストーンサークル以上に特定地域限定の墳墓形態と見られる。

 ストーンサークルと周提墓双方が同じ地域に存在していたのは斜里町と芦別市のみと云う。

 ストーンサークルも発足当初は墳墓として造られた遺構が、後に祭祀儀礼場に変形し、墳墓としての役割を周提墓に引継いだのではないかとも云われている。
叉これらの遺構は北方との文化交流の中で引継がれたかも知れない。

朱円周提墓T 朱円周提墓U

 文後期の墳墓遺構は2ヶ所あり、直径約32mと28mの円形土提を巡らしている。
2つの周提墓合わせて20基以上の墓の存在が推定されているが、集落住民のうち、一部特別な有力人物が副葬品と共に埋葬されたと考えられる。

 集落跡は見つかっておらず、当時の墳墓は日常生活の場とは距離をおいて造られたと見られる。

 周提墓もストーンサークルと同じくムラの有力者のリーダーシップで造られたのではないかと推測される。

以下多数の副葬品の中から、黒曜石製石鏃・削器・尖頭器・掻器、石棒や異形土器、勾玉、紡錘車状土製品や玉・垂飾などの装身具を紹介する。

積みされた墓の中からは人骨のほか石器・石棒・土器・土製品・装飾品など多数の副葬品が検出されている。
サメの歯・漆器・編布なども見つかっていると云う。

 積石墓・配石墓は大小様々で、大きな墓からは3体合葬された人骨が見つかっているが、屈葬か伸展葬かは不明。

 全ての墓には共通してベンガラが撒布されており、副葬品の質量を考え合わせると、ムラの有力者の墳墓として格別な取り扱いを施したと考えられる。
当時の社会階層・構造を考える貴重な資料と云える。

 叉一部土器には東北地方と共通する文様が見られることから、この時期東北地方との交流があったことを示唆している。

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