北 海 道 斜 里 町 の 朱 円 周 提 墓
北海道では縄文早期から中期までの間、明瞭に区画された墓域は見当たらないが、後期になるとストーンサークルや周提墓として住居区域とは離れた場所に墓域を設けるようになった。 しかし晩期には構造的に区画された墓域は無くなってしまったと云う。
この時期東北地方の文化的影響を強く受けたことから、墳墓の在り方についても東北地方と密接な関係があったと考えられる。
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朱円ストーンサークルは(環状列石)はオクシベツ川流域にあり、縄文後期に朱円周提墓に先立ち造営され、中央に大きな立石があり、発掘調査の結果、サークル中央付近からは火を燃やした跡・木炭と共に焼けた獣骨の破片・炭化物などが一緒に検出された。
焼けた獣骨の中にはクマ・エゾオオカミ・エゾシカ・海獣などが確認された一方で、墳墓の痕跡が見つからなかったことから、ストーンサークルは墓地ではなく祭祀的な場所と見られている。 |
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復元されたストーンサークルは、そのままの状態で現在の知床博物館脇に移設されたもので、円形の配石を連鎖状に円形に巡らして造ったと見られる。 立石のある中央からはベンガラも見つかったと云う。 ストーンサークルは北海道道南・噴火湾周辺・道北部・道東部には見られるが、道中央・日高地方・釧路地方では見つかっていないと云う。局地的な祭祀用遺構と云える。 |
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朱円周提墓はオクシベツ川流域の台地上にあり、縄文後期の墳墓群で、石組の代わりに土提を円形に巡らし、内側に集石や立石を持つ墳墓の一種として確認されている。
本周提墓はストーンサークルに次いで登場しているが、道内では石狩低地帯南部に集中し、道東では斜里・標津町でしか見つかっていないと云う。 ストーンサークルと周提墓双方が同じ地域に存在していたのは斜里町と芦別市のみと云う。
ストーンサークルも発足当初は墳墓として造られた遺構が、後に祭祀儀礼場に変形し、墳墓としての役割を周提墓に引継いだのではないかとも云われている。 |
縄文後期の墳墓遺構は2ヶ所あり、直径約32mと28mの円形土提を巡らしている。 2つの周提墓合わせて20基以上の墓の存在が推定されているが、集落住民のうち、一部特別な有力人物が副葬品と共に埋葬されたと考えられる。 集落跡は見つかっておらず、当時の墳墓は日常生活の場とは距離をおいて造られたと見られる。 周提墓もストーンサークルと同じくムラの有力者のリーダーシップで造られたのではないかと推測される。
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石積みされた墓の中からは人骨のほか石器・石棒・土器・土製品・装飾品など多数の副葬品が検出されている。 サメの歯・漆器・編布なども見つかっていると云う。 積石墓・配石墓は大小様々で、大きな墓からは3体合葬された人骨が見つかっているが、屈葬か伸展葬かは不明。
全ての墓には共通してベンガラが撒布されており、副葬品の質量を考え合わせると、ムラの有力者の墳墓として格別な取り扱いを施したと考えられる。
叉一部土器には東北地方と共通する文様が見られることから、この時期 |