津雲貝塚

は、明治3年堤防工事中に人骨が発見されたことから注目され、大正4年以降10年までに20回近い発掘調査が行われ、約170体の縄文後・晩期の人骨が発見されたことで一躍脚光を浴びた。

 津雲人骨が縄文人骨を代表する貴重な資料として“原日本人説”まで唱えられた歴史的背景があり、人類学・民俗学・考古学研究上不朽の成果をもたらしたと云う。

 本貝塚遺跡は縄文前期から後・晩期・弥生・古墳時代まで4,000年以上もの間、人々の生活拠点として存続していた。

 旧児島湾(現在の倉敷市周辺)から笠岡湾にかけての海岸線には、本貝塚を筆頭に縄文遺跡が10ヶ所以上あり、そのうち4ヶ所で縄文人骨が発見されている。

津雲貝塚 同そのU 同そのV

 メと貝類の間に望む貝塚現場や貝殻などが散在した貝塚現場。
現在は畑として利用されているが、カキなどの貝殻が纏まって散在し、当時を偲ばせるに十分な痕跡を残している。

 縄文前期(今から約6,000年前)には“縄文海進”が最高に達し、笠岡市地域でも海岸線は東北・北西へそれぞれ2km以上も入り込んでいたと見られる。

成人頭蓋骨 人骨片

 康な歯を規則的に抜き取る抜歯の風習は縄文前期から認められ、後・晩期人骨の若年以上の成人は抜歯されていたと云う。
抜歯の位置・組合せには規則性があり、特に上顎犬歯の抜歯は性別を問わず若年以上の成人に施されていることから、成人・結婚・親族の死など、通過儀礼の象徴と見られている。

埋葬姿勢はほとんどが両手足を曲げた屈葬で、胎児の姿勢として最も自然な姿であり、死後に母なる大地へ帰化させ再生を願う現われとも云われている。
晩期には土器中に乳児を埋葬した実例も知られている。
埋葬人骨の頭の方向にも一定の規則性が見られ、太陽が昇る北東から東南に向いていたと云い、集団墓制を知る上で貴重な発見として評価されている。多くの埋葬人骨の発見に伴って、多種類の身体装身具と考えられる遺物が検出された。

次に身体装身具のうち、貝輪、鹿角製腰飾、土製の勾玉・玉類そして土版の順番で以下紹介する。

部に彫刻や文様が施されているモノや、中央部の孔に紐を通して縛り付けたと考えられるモノなどがあり、被葬者は女性の場合は呪術的活動を担った巫女、男性の場合は集団の長老・祭司・呪術師と推定されている。

 土版は表裏に沈線文様が描かれており、護符・呪符と考えられる。

以下文字列にポインタをおくと、鹹水産の貝類、獣骨及び石槍・先頭骨に出会えますよ!

 ハイガイ・アカニシ・マガキ・レイシなどの塩水産の貝類

 イノシシ・シカ・タヌキなどの獣骨

 石槍・尖頭器などの石器類

西約40m・南北約60mの範囲に分布し、厚さが90cmほどにも達する本貝塚は膨大な遺物を包含している。
貝類は砂泥質の浅海に棲息するものが主体であることから、現在の水田地帯は当時には砂泥質で遠浅の海が広がっていたと見られる。

 津雲人はシャープな狩猟具を駆使した狩猟活動にも活発で、貴重なパンパク源としてイノシシ・シカのほかキツネ・タヌキも散見され、狩猟活動は時にはキャンプをしながら遠隔地にまで及んでいたと考えられる。

鹿角製釣針 石錘

 塚から出土した釣針や石錘から、男性を主体とした漁労活動も盛んであったことが窺える。
石錘など網の錘を使った集団漁労と共に、釣針による個人的漁労も並行して行われていたと見られる。

 このような食糧獲得活動は四季折々の自然界の法則に則り、計画的に行われたと考えられ、厳しい自然界に対する認識と、乱獲・幼獣や未熟な植物採取の禁止などの規制を自ら課して、集団の末永き発展を目指していたものと考えられる。

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