籠(つづら)尾崎湖底遺跡は、琵琶湖北東湖北町の葛籠尾崎東沖6〜700mのところにあり、葛籠尾半島から竹生島方向に東西2km・南北1.6Kmの範囲にわたり、急勾配の岬が湖に落ちる水深50〜70mほどに及んでいる。

 このV字形の湖底谷から引き揚げられた土器類は完形品が多く、縄文時代早・前・中・後・晩の各期に及び弥生から中世まで含めると、その数は150点以上にのぼると云われる。

 深湖底に沈積した遺跡から、今なお時折猟師の網にかかった遺物が引き揚げられる事実は、世界でも類例のない湖底遺跡と見られている。

尾上海岸より竹生島と葛籠尾崎を望む

 籠尾崎岬(写真右側)から竹生島(左側)に向けて当遺跡は沈積したまま。

 琵琶湖岸・湖底に沈む遺跡は98ヶ所も見つかっているが、水深が2m前後で地盤沈下によるものと解釈されてきた。
しかし湖底70mほどに眠る当遺跡の沈下原因は今もって大きな謎に包まれている。

 水深70mほどの湖底に沈積した縄文土器、その原因・成因は何であったろうか?

 大正13年の初発見以来諸説が提唱さえてきたが、いずれも決定的解明には至っていない。

 大規模な地殻変動により地滑り現象が起きたためとする説、天候急変で難破し船上の荷物が水中に沈んだとする説、湖上住居址説、水霊信仰に伴い土器を水中に投げ入れ奉納したという説、湖岸諸遺跡の遺物の移動説、或いは当遺跡の遺址が地震等による地形変動により水位が上がる度に、押し流され湖底に辿り着いたという説等々が説き明かされてきた。

 しかし当湖底遺跡が縄文早期(約9,000年前)から7・8世紀まで数千年の長期間にわたり存続した異例の遺跡であり、その成因分析は極めて難しく又各々の説には科学的裏付けが乏しく決定打に欠けると共に、今後とも実証出来るかどうか疑問が残る。

 当湖底遺跡の謎は、今後とも私達の想像をかき立ててくれるであろう!

 葛籠尾崎湖底から引き揚げられた土器には、完形のモノ及びそれに近いモノ合わせて100個体以上に及ぶ。

 特に全国的にもユニークで特徴的な点は、湖水内・湖底泥に含まれる鉄分が数千年の間に土器に付着して錆び付き、厚いところでは数mmの鉄のカバーが出来た状態となっている。
「湖成鉄」と呼ばれ、土器表面は赤黒茶けているものの、ズッシリとした重みがあると云う。

 湖底にあった時期の長短が、即固着している鉄分の厚薄の差となって表れていると見られる。

 以下典型的湖底縄文土器を紹介する。
縄文時代を通じて中部地方・瀬戸内地方との交流が窺えると云う。

以下文字列にポインタをおくと、珍しい黒光りがした土器に巡り会える!

 縄文時代早期の深鉢土器。押型文を有する最古の完形尖底土器は全国的にも貴重な資料と云う。黒茶けて見えるのが「湖成鉄」が固着したもの。

 縄文前期の平底土器。縄文早期の尖底形から平底に器形が変化し器壁も薄くなっている。口縁部に細い凸帯を付し、その上に爪形の装飾を付している。「湖成鉄」が付着しているのが分かる。

 縄文中期の土器。器形は下胴部が膨れ、口縁が大きく開いている。太い沈線で垂下文を付けている。ここにも「湖成鉄」が付着しているのが分かる。黒光りがして何とも異様な雰囲気を醸し出している。

 縄文後期土器。沈線文を主体に磨消縄文様式を施している注口土器は朱彩した逸品と云われる。

籠尾崎湖底遺跡の湖底からから引き揚げられたという、鉄分により被われた奇怪な「湖成鉄」土器をもう一度ご覧に入れましょう!

(葛籠尾崎湖底遺跡出土の鉄分に被われた土器)

籠尾崎湖底遺跡から引き揚げられたその他の遺物の中には石斧・鋸・鹿角製品等があるが、土器類に比べて少ないと云う。

小形品は網にかからないし、石斧のような刃を有し重みのあるモノは網を破って洩れてしまう。

いずれにしても当湖底遺跡が残した遺物類は、その沈没状態などに極めて複雑な様相を呈し、その全貌解明は困難と云われる。

まだまだ謎に包まれた湖底遺跡である!

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