の第一遺跡は千葉市北東部、勝田川支流の河岸段丘から河川敷に広がっている。

 約95,000uに及ぶ発掘調査は1988年に始まり1997年に完了したが、縄文時代中期から晩期・古墳・平安時代へと続く複合遺跡であることが判明。

 縄文期の集落面積は約25,000uで川沿いの低湿地にあり、竪穴住居址が160軒ほど確認されたと云う。

 又墓域からは縄文後期から晩期初頭の人骨が12体分出土し、成人の膝下と幼児の手足には朱が塗られていたと云う。

人面土版表側 人面土版裏側

 みずくのような顔をした人面土版の胴から足の部分に広がる三角形の幾何学文様は裏面にも続き、身体全体に施されている。
手足の表現を立体的にイメージしたようにも見える。

 顔付きは、何かを叫んでいるようで悲愴感が漂っている。

舟型土製品

 文後期中頃の多数のミニチュア土器に混じり出土した舟型・椀型土製品にも、ミニチュア土器と同じように孔が空けられているが、土製品の片方だけ。

 魔除け用として吊るしていたのであろうか?

 幼児の人骨に朱が塗られたり、土偶は約400点、石棒・石剣が約130点と大量に見つかり、内野縄文ムラに非常事態発生が感じ取れる。
天変地変か疫病の蔓延か、何か悲劇的様相が想起される。

 出土遺物の整理が現在も進められており、いずれ遺跡全貌が明らかにされることを期待したい。