釈峡遺跡群は広島県の北東部一帯に所在し、瀬戸内海や日本海から直線距離で約60km離れた中国山地南斜面の高原に位置している。

 帝釈峡の石灰岩地帯で、昭和36年に帝釈馬渡岩陰遺跡の発見が糸口となって、石器時代の岩陰遺跡・洞窟遺跡が多数分布することが明らかとなり、現在までに53の遺跡群が確認されていると云う。

 石灰岩地帯にある洞窟・岩陰の遺跡は、人骨・動物骨など自然遺物の遺存状態が良好で、且つ各時期の遺物包含層が整然と連続して堆積している。
洞窟・岩陰は天然の廂で、雨・露を防ぐ絶好の場所であり、廂の前面に柱穴列が検出された例もあり、草葺の住居としていたと見られる。
内部には灰・炉跡・敷石・石列・貯蔵穴などが見つかっていると云う。

 寄倉(よせくら)岩陰遺跡は、帝釈川北岸の山麓にある全長約30m・奥行き約15m・地表面下10m以上にわたる、帝釈峡遺跡群の中で最大の岩陰遺跡と云われている。
本遺跡は縄文から鎌倉時代にわたる複合遺跡で、特に縄文時代は早期から晩期に至る13層に及ぶ文化層から多量の遺物が整然と層序を成して出土したと云う。
又縄文後期末から晩期にかけての文化層からは多数の人骨が出土しており、縄文時代の墓葬に新しい資料を提供している。

 このようなことから本遺跡は、昭和44年に国史跡に指定された。

(帝釈石灰岩のサンプル)
跡現場付近は帝釈石灰岩地帯と呼ばれる石灰岩が発達する地域で、石灰岩台地を侵食した帝釈川の渓谷は国の名勝地に指定され、“帝釈峡”と呼ばれている。

次に遺跡現場とその遠景及び周辺環境を紹介する。

遺跡は帝釈峡入口近くの帝釈川左岸にあり、昭和38〜41年にかけて4次にわたる発掘調査が実施された。

 その後40年ほどの風雪は当時の面影を残していないが、発見された遺構の中で、特に注目されたのは埋葬人骨群。
岩壁南寄りの2ヶ所に人骨が集積された状態で発見され、全部で46体分の人骨が確認されている。
未調査・保存区には更なる人骨が埋葬されていると見られている。

 人骨群は某大学に保存されたまま、未だ詳しい分析は行われていないが、頭骨と四肢骨が分離されている点、抜歯の痕跡、赤色顔料の付着、幼児骨の一局集積状態、石剣の柄頭を伴った人骨など、興味深い謎が多い。
集積された埋葬人骨群から意図的に集められた改葬或いは二次葬と考えられ、地域集落の共同墓地であったかも知れないと云う。

中津式土器 里木式土器

 文後期の中津式土器及び中期の里木式土器。
これらの復元土器を含め土器の層位的出土例から、中国山地地域の土器編年が組み立てられると云う。

 土器の中には、胎土の中に植物繊維を混ぜた早期後葉の東日本系新型土器も見つかった。
この他九州系土器も出土しており、当地は南に瀬戸内海・北に日本海を控え、海が果たした文化交流・交易が窺い知れる。

石鏃 黒曜石器

 ろいろな形の石鏃と黒曜石製の石刃・剥片。
鋭利な切先・刃部を必要とする石鏃・石刃などの石材には、X線分析の結果、石鏃は香川県産サヌカイト、黒曜石は隠岐島産など遠隔地から入手している。
大分県姫島産の黒曜石も見つかっている。

 ここにも瀬戸内海と日本海に通じる地理条件を十分に活かした、生活の知恵が垣間見える。
中国・四国地方の文化交流圏に位置していると云える。

以下文字列にポインタをおくと、いろいろな海産貝類・アクセサリー・骨角器などが窺えますよ!

 アワビ・ハイガイ・ハマグリ・マガキ・サルボウなどの多量の海産貝類

 牙玉・石製勾玉

 海産貝類を加工した腕輪など

 骨針・垂飾など骨角器

理条件を活かした例として、アワビ・ハイガイ・ハマグリ・マガキ・サルボウなど多量の海産貝類が上げられる。
縄文時代開始当初から海岸部地域との交易が行われており、マガキは房総半島以南の太平洋側で、日本海側では山口県近海しか見られないことから、広域に及んでいたと見られる。
これら海産貝類は腕輪・首飾りなど装飾品の材料として多用している。

 イノシシ・シカの角・手足の骨は、孔を空ける加工具として、又ペンダントのような装身具として利用されていた。
貝輪・牙玉・石製勾玉などの出土例も、文化的交流・交易を暗示している。

 この他出土した哺乳動物・魚介類などは現在でもこの山間地域に生息する種類と同じであり、中国山地の自然環境に適応した生活文化が明らかになった。

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