火焔型土器は、北陸と東北地方に同様の構成文様があり、影響を受けたと云われるが、余りにも個性美・造形美に満ちた芸術作品に見える。 |
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火焔型土器は、胴部の半隆起線文を密に施す技法は北陸地方から、器形と四つの把手を基準とした文様構成は東北地方から、それぞれ影響を受けたと云われる。
鶏頭冠把手・眼鏡状把手・横S字形・波状形文様等が火焔のイメージを創り出しているが、はたしてそうであろうか?
一般的に土器製作者は、男性との役割分担という視点より、女性が主担当であったと云われるが、ダイナミックな男性的土器に見える火焔型土器製作に関しても、同じことが云えるであろうか? 縄文時代中期中葉から後葉にかけて僅か100〜150年の存命に終わった背景・経緯とは?
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上記のような疑問から以下のような仮説を立ててみたい。
積雪平均年2.5mと云われる日本一豪雪地帯で、それが雪解けして日本一の信濃川となり、日本一の河岸段丘を造り出した。 信濃川は、食糧資源ソースとしての母なる川であったと同時に、度重なる水害により縄文人を苦しめた猛威・呪いをも意味していたと思われる。 信濃川神話は、「火焔」ではなく「渦巻き」を物語っているように見える。
しかし狩猟から採集・漁労へ食文化の変化・多様化によって、犬信仰が次第に薄れていったと考えられる。
火焔型土器製作プロ集団が、製作コンセプト・神話に関する内部抗争から次第に孤立していき、外様文化により遂には追われる身となったと考えられる。 上記仮説の説得力・訴求力は如何なものか! |