文時代初頭から中期頃までの九州と東日本の縄文社会・文化を比較すると、東西の縄文社会の差異が何故発生したかが見えてくる。

 九州の縄文食文化が狩猟中心社会であったのに対して、東日本が漁労中心であったのは、将に食糧を求める環境への適応結果と考えられる

 狩猟社会の九州地方遺跡に貯蔵穴が多く発見されるのは、漁労社会に比べて食糧事情の季節変動への対応結果と考えられる。
一方漁労中心の東日本集落では、四季を通じて食糧事情に恵まれていたと見られる。

(平塚市上の入遺跡から出土した縄文時代の漁労用石錘他石器類)

 の時期西日本には大規模な集落がないのに対して、東日本では20m級の大型掘立柱建物を含む環状集落が発見されているのも、人口を支える食糧事情・環境が大きくかかわっていると考えられる。

 縄文中期には中部高地地域に遺跡数が爆発的に増加しその後急激な衰退も、原始的農耕作業の限界からくる不安定な食糧事情に関係があったとされる。

 しかし縄文時代後期から晩期にかけ、特に西日本において低地へ遺跡が集中するようになるのは、本格的農耕社会に先立ち社会が質的に変化し、安定供給までは行かないが食糧の自給力が増大した結果と考えられる。

 この間縄文時代約10,000年間を通じ変化していった食生活に関わるツール・土器・石器類の変化或いは地域間の格差を更に研究することにより、食糧事情の変化とツールの変化との関係がより明確になると思われる。

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