文人は自然災害や病根のため或いは食糧源を求めて移動又は移住する際、しばしば既存の縄文ムラに間借りする道を選んだと考えられる。

 全く新規にムラ興しを始めるより手っ取り早いし、移動の頻度が重なれば重なるほど、いわば居候という安易な選択肢を決め込んだと見られる。

 受入れ側の縄文ムラも一小部落・少人口では心細いし、食糧をまかなえる範囲で移住民を受入れ、適正小集団群を形成していったと考えられる。

 異文化・知識・知恵を求めて切磋琢磨を厭わなかったと見られる証拠としては

 数の土器様式、器形や文様モチーフをはじめとして、色調・器壁の厚さ・施文具等に明瞭な差異を示す。

 特に複数の異なる様式土器が各々大量に出土した場合、複数の流派が併存していたと考えられる。

 文人の抜歯風習について、抜歯する歯の個所が犬歯であったり、切歯であったり又抜歯数が上下異なったりする。
抜歯形態に明瞭な差異と統一性が窺える。

 抜歯形態により所属する小集団を区別する意図があったと考えられる。

蜆塚貝塚出土の頭蓋骨

 岡県浜松市の蜆塚貝塚から出土した31体人骨のうち2つの頭蓋骨。
上下の歯は噛み合わさっているが、上下の犬歯を抜く風習があったと見られる。

 形・円形・六角形等住居形態の違いや、屈葬か伸展葬か、副葬品を入れるか入れないか、配石墓形式の違い等々埋葬形式の差異にも異文化混在・共同生活の痕跡が窺える。

 要するに、複数の小集団が各々の規制・習慣を許容しつつ、各々が合体して縄文社会を機能させていたと見られる。

 小集団活動の良いところは積極的に受入れ、各々相乗効果を上げながら合体して生活防衛・集団の繁栄を図ったと考えられる。

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