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賀県能登川町の新郷亀塚古墳は式内社乎加神社の背後に所在し、北東には縄文時代後期の集落跡として著名な正楽寺遺跡があり、又西側には弥生後期から中世まで1,000年以上栄えた湖東地域の中心集落、斗西遺跡・中沢遺跡などが知られている。

 これらに法堂寺遺跡を加えた湖東地方の集落跡全体の面積は約30haにも及び、住居跡・祭祀場跡の他に出土遺物からも、湖東地方を広く治めた大王の居住地として十分推定出来ると云う。

 今回の発掘調査で周りの田圃や畑の下から濠が見つかり、全長約35.5mの前方後方墳であることが判明した。
墳丘の高さは現在でも3.6mあり、出土した土器片の型式などから3世紀前半の全国最古級の古墳でありことが裏付けられたと云う。

亀塚古墳現場の全景 亀塚古墳の後方部現場

 方部の最高部分には約7×5mの範囲で主体部の落ち込みが検出され、埋土からはベンガラや土器片が出土したと云うが、主体部は今回発掘調査を実施していないため、内部の構造や副葬品は不明のまま。

今後の発掘調査結果が待たれる。

前方部の写真

 方中心部から南西方向を見下ろした前方部の写真。
墓壙内の土器は土器編年から弥生後期のモノと見られ、3世紀前半の最古の古墳と断定された。

 弥生時代は低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも、土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことが判明した。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は大和地域を中心に広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは東海地方を中心に邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)と云う説が有力であったと云う。

ところが今回の発見で狗奴国の範囲が広がり、亀塚古墳の主は狗奴国連合の一国の王か、或いは前方後方墳は近江で発祥し東海地方に広まったのであり、唯一卑弥呼に服属しなかった国として知られる狗奴国の中心は、むしろ近江であったのではないか?

 いずれにしても滋賀県地域には前方後方形周溝墓など弥生墓が10ヶ所もあり、又大規模な環濠集落や大量の鉄器が出土した遺跡など重要弥生遺跡が数多く発見されている。

大和・河内と東海・北陸との接点という地理上の要地に加え、広大な平野・琵琶湖という水かめなどの好環境にも恵まれ、独自の古代国家を誕生せしめる素地・条件は十分整っていたと云える。

 更なる新発見・論争の進展が今から待たれる!

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