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クセサリーを通じて垣間見る縄文社会とはどんな社会であったのか、ここではアクセサリーを祭祀用装身具という仮説にとらわれることなく、縄文社会がそうであったようにもっと自由な現代感覚で仮説を立てて見る

 アクセサリーはムラの権力者やシャーマンのような祭祀者に与えられた唯物特権であったという有力な見方もあるが。

自由競争社会であった!

土器・石器製作などの技能に秀でた職人や手際・段取り良く物づくりに精進したムラ人は、やがて競争社会に抜きん出て富を蓄積して行き、その腕前は土器・石器などの受注生産にまで拡大していった。

商業主義の進展

物々交換を通じ交易・文化的交流が促進され、特定地域にしか存在しない貴重な材質のアクセサリーが入手出来るようになった。

縄文人は日本の古代史上唯一現代にも通じる国際的ハイセンスを持ち合わせていた。

 身嗜みは清潔で優美なセンスを競い合える一部の美男美女の間で、贅沢なお洒落競争からファッションを作り出していった。

 アクセサリーを装着したムラ人は全体の1割程度と言われたいるが、装着しても恥ずかしくない有資格者の割合として1割程度は妥当なところと思われる。

女性の通婚圏内で嫁ぐ際、家宝に等しい貴重なアクセサリーが結納品として差し出され、又そういうリッチな結婚相手を探し求めた。

 今日の贅沢な家具調度品に相当するステータスシンボルであった。

縄文早期後半から始まり、少数のムラ人の間で起こったアクセサリーブームは縄文中期には最盛期に達し、特に奇抜・派手さを競い合い加熱していった。

以下全国各地から出土したお洒落感覚のアクセサリーを順番に紹介する。

いろいろな石製アクセサリーには、山形県羽黒町玉川遺跡の硬玉製勾玉、東京多摩ニュータウンのけつ状耳飾り、兵庫県淡路佃遺跡のペンダントが続きます。

そして次に鹿角・イヌ・イノシシなど骨角製アクセサリーには、沖縄県内のイヌ・イノシシ・サメ製アクセサリー類、宮城県七ケ浜町大木囲貝塚の髪飾り、宮城県内の鹿角製腰飾り、宮城県鳴瀬町里浜貝塚の鹿骨製腰飾りと続きます。

更に貝製では沖縄県石川市古我地原貝塚の貝製小玉類、土製では群馬県榛東町茅野遺跡の土製耳飾りそして木製アクセサリーでは福井県三方町の鳥浜貝塚の櫛飾りなど。

以上のようなアクセサリーのお披露目合戦は縄文中期には頂点に達し、後期・晩期へと継承されていった。

その後弥生・古墳時代に一部は残るが、古代以降はその影がすっかり潜んで約2,000年の間アクセサリーとは無縁の時期を過ごしたことになる。

そしてアクセサリーを付ける習慣が再び再現されるのは、西洋と劇的に出会う明治時代を待たなければならなかった。