茨城県取手市の中妻貝塚は明治時代から考古学会にその名が知れられた有名な遺跡、というのも一つの墓壙から101体もの人骨が発見されたという事実です。 縄文時代の葬制には、単なる墓壙への埋葬、ベンガラを大量に散布したモノ、火葬、埋葬した遺体を掘り出して甕に収納し直す再葬、石で囲むモノ、立石を持つモノ、副葬品を伴うモノ等々多数に及び、当時の生活慣習・社会情勢を反映している。 縄文時代後期・晩期の中妻貝塚は101体の再葬墓と云われる。 |
中妻貝塚現場
小貝川に面した台地上に形成された貝塚の一つで、現在は福永寺墓地の一角が貝塚跡として保存されている。 墓地一帯が貝殻で蔽われ貝塚の規模が伝わってくる。 中妻貝塚が形成された縄文時代後期(約3,000年前)には海岸線が後退して、小貝川などの河川の河口には砂浜が発達し、貝の成育に適した環境となったと見られる。 |
貝層断面
貝層に見えるのは、河口から内陸に生息するシジミガイがほとんどであり、魚骨は外洋に面する海岸では漁労が盛んであった証左としてマダイ・クロダイ・スズキが多く見られ、又淡水のウナギ・コイなども点在している。 一方河川の流域には湿地帯が広がっていたと見られ、ハクチョウ・ガン・カモ類の鳥骨やシカ・イノシシ・キツネ・タヌキ・アナグマなど大小の動物の骨も出土したと云う。 河川・海岸・湿地帯・森に接し囲まれた好環境に恵まれ、豊かな生活痕跡が窺える。 |
物質面のみならず精神生活面も充実していたと考えられ、土偶・石棒などが見つかっている。 中妻村民の再生や子孫繁栄を願ったものと見られる。 以上のように豊富な水産・自然環境や温暖な気候と合わせて豊かな精神文化にも恵まれ、発展していた中妻ムラに何が起こったのであろうか? 101体の人骨が一緒に埋葬されていたという事実は何を物語っているのであろうか? |
頭蓋骨の大小が明らかに識別される。 歯の計測値比較による血縁関係や歯根から採ったDNA分析による遺伝子データから驚くべき事実が明らかになった。 彼等は一家系に属する母系集団の可能性が高く、又DNAデータ配列がモンゴル人と共通している人骨が全体の約60%もあり、大陸の人々に祖先を持つことが分かったと云う。 直径約2m・深さ約1mの土壙から101体もの埋葬人骨が発見されたのは、全国でも初めてと云われる。
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