岡山県児島はかつてその名の通り“島”であった。現在は本州の一部で岡山市・倉敷市・玉野市及び灘崎町に分かれている。

 児島地方の地形学的・歴史的変遷を辿ると、現在の大阪と福岡のほぼ中間に位置し、本州との間の内海は吉備の“穴海”と呼ばれ、有史前から重要な海上交通路であったと思われる。
遠く中国山地から流れ出てきた土砂の堆積は、緩やかな河岸段丘・扇状地帯を造成し、河川によって運ばれる有機質などによって適度な栄養を持った海域を形成するようになる。

一方潮流で運ばれた土砂が入江の口へ堆積し、砂州を形成していく。

 そしてやがて豊かな魚介類の繁殖する海域となり、温暖な気候・豊かな木の実・野獣資源にも恵まれ、縄文前期には集落が形成され、以降中期・後期にかけて児島縄文人の活躍により栄々と発展して行ったことを、少ないながら出土遺物は教えてくれる。

 しかし吉井川・旭川・高梁川の三大河川からの土砂が堆積して穴海は徐々に浅くなって行った。

船元貝塚 の船元貝塚現場付近は縄文中期には瀬戸内海岸であったと見られる。
土砂堆積に加えて江戸時代以降昭和39年までの約400年の間、食糧増産施策により干拓が積極的に進められ、遂には点在していた島々が陸続きとなり半島となった。
そしてやがて完全に本州と一体となってしまった。

400年にわたる干拓行政の結果、開墾が相次ぎ貝塚遺跡・集落跡は削り取られ、ほんの一部の貝塚のほんの一部分だけしか見つかっていない事実に注目したい。

 新田開発・米作農耕が進み、肥沃で広大な農地が広がり、川を伝っての舟運による備中米・綿・菜種など作物の集散地として発展して行った一方で、多くの文化財を犠牲にしてしまった

 児島地方の特徴は、縄文時代を通じて海底であったため、平地・平野部には遺跡が所在しないものの、河岸段丘地には数多くの貝塚の一部が検出されて来た。
例えば倉敷市内の貝塚だけでも、縄文時代を通じて北から矢部・西尾・西岡・酒津・妹尾大村池下・黒崎・五日市西・船倉・羽島・連島西之浦・浦田・福田・船元・磯の森・舟津原・島地等々枚挙にいとまがない。

西日本では有数の縄文貝塚遺跡の密集地として注目される。

里木貝塚 文前期にはこの辺りのハウス畑一帯まで海が入り込み、北側の丘陵には木々が茂り、木の実・シカ・イノシシなど食糧事情に恵まれていたと云える。
約8,000年前に氷河期が終わり、温暖化と共に海進により平野の奥深くまで海が入り込み、貝塚の所在する場所はかつて海岸線近くであったことを物語る。

 かし度重なる干拓事業により貝塚遺跡は掘削・消滅し、集落跡は皆無の状態である。
貝塚の保存状態が良かった笠岡市の津雲貝塚に見られるように、約170体の人骨が発見された事例からも、児島地方周辺の人口密度は高かったと推定される。

 開拓・開発優先か、或いは埋蔵文化財保存重視かは、今日でも議論・対立が絶えないが、現状のままでは今後とも永遠のテーマとして引きずられていくと考える。
しかし開発優先の代償は余りにも大きいと云える。

 自然との共生・埋蔵文化財の保全を大前提とした“秩序ある開発”は、国政レベルでの明解な指針の下、行政指導・法秩序整備を望んで止まない。

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