5. アイゼナハEisenach

バッハ(1685-1750)はアイゼナハで生まれた.また,1498年から1501年まで,ルターが学生時代を過ごした古い木組みの家が残されている.
中世の城,ヴァルトブルク城はチューリンゲンの伯爵ルートヴィヒ・デア・シュプリンガーが建てたとされるが,今ある城は1170年後期ロマネスク
様式で建てられた.この城の中にルターの部屋がある.教皇に追放されたルターは学生時代を過ごした縁でこの地にかくまわれたのだろうか.


市庁舎 ――― ドイツのパン,プレーツェル

7月2日(火)つづき
6時,夕食に出る.まだまだ外は真昼のように明るいし,今日は暖かくて,半袖で過ごした.
2017年はルターの宗教改革500年祭で,市庁舎の前にのぼりが立っている.公園にはルターの像もあった.

レストランのメニューはドイツ語だけだ.ステーキがわかるだけで,あとは,値段を見て,あてずっぽうに注文した.出てきた料理が誰の注文かわからない.
正さんがステーキ,私のは牛肉のソース煮にじゃがいものもちもち団子,かおるちゃんのはとり肉にあっさり酸味野菜,宏二さんのはパスタ料理と,まあまあの線に落ち着いた.

7月3日(水)晴れ時々雨
9時,バスでヴァルトブルク城へ.昨日駅前のバス停で時間を見ておいた.1時間に1本ある.
ドイツ語のガイドツアーは10時20分開始,日本語のパンフレットがあり,城の歴史やさまざまなエピソードが紹介されていた.
ヴァルトブルク城
ルターの部屋
ルター(1483-1546)は宗教改革者で,1517年,教会が発行する免罪符を人々が買うことによって罪が免罪される制度などを批判した「95カ条の意見書」を
ヴィッテンベルガー城の礼拝堂の扉に張り出した.ルターは聖書に基づく信仰のみを主張する.1521年,自説を撤回しないルターは教皇により異端者として
追放される.そして,ここヴァルトブルク城にかくまわれ,10カ月間この部屋に閉じこもって,新約聖書を原文のギリシャ語からドイツ語に翻訳した.

帰りのバスで運転手に「バッハハウスまで行く」と言ったのに,「着いたら知らせて下さい」までを言わなかったら,教えてくれなかった.信じられない.
かおるちゃんが気付いて降りたら,2駅ほど乗り過ごしていて,昨日夕食を食べたマルクト広場まで来ていた.
バッハハウスとルターの家への道路標識が,なんと,日本語で出ている.ここは日本人がよく来る場所なのだ.

 ルターが学生時代を過ごした古い木組みの家

バッハハウスでは日本語のパンフレットを売っていた.吊り椅子に座ってバッハの音楽を聴く.
壁には3人の画家によるバッハの肖像画がある.中央がエリアス・G・ハウスマンによるもので,私たちがバッハだと思っている顔なのだが,かつて,これには議論が巻き起こり,
1894年にバッハの骨が掘り起こされ,頭蓋骨の鋳型を基に,ライプツィヒの彫刻家カール・ゼフナーがバッハの肖像を制作したことが紹介されていた.
 


 バッハの時代の楽器も多数展示されていた.バッハの父はアイゼナハの町楽師長で,いつも宮廷楽師と一緒に音楽を演奏していた.バッハには最初の妻マリア・バルバラ
との間に7人,再婚したアンナ・マクダレーラ・ヴィルケとの間に13人の子どもがいたということだ.バッハがこんなに子だくさんだとは知らなかった.有名な音楽家になった人も
数多いらしい.きれいな中庭があって,色とりどりの花が咲いていたが,あいにく雨.

ホールでは3時から,古楽器の紹介と演奏が始まった.2台のハウスオルガン,スピネット(小型のチェンバロ),クラヴィコード,ハラス・チェンバロ.
2人の女性が代わる代わる解説しながら,演奏してくれた.隣の席の男性が,英語で少し説明してくれる.オルガンは演奏の前に空気を入れる.クラヴィコードはとても小さな音だった.

 

次は ゴスラー