10月11日(木)

ホテル横からオランダ坂を登り,グラバー園に行く.ここには長崎に暮らした外国人の家屋敷が残されている.
1853年ペリーの黒船が浦賀に入港,1859年に長崎は開港される.その後40年間,長崎は外国人居留地として栄えた.
トーマス・ブレーク・グラバーは長崎が開港された年にグラバー商会を創設し,日本人ツルと結婚した.息子の倉場富三郎は蒸気トロール漁船を導入したという.
三菱の創始者岩崎弥太郎と弟の弥之助はグラバーとも親交が深かった.グラバー園から望む長崎港には三菱造船所が見える.
お昼に山盛りの長崎チャンポンを食べ,おみやげに長崎カステラを一杯買い込んだ後,歩いて出島に向かう.

 
旧グラバー邸
   
三菱造船所

 
出島は1634年徳川幕府がポルトガル人を管理する目的で作った人工の島である.しかし,1639年に幕府はキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放とし,
出島は無人島となった.1641年に平戸からオランダ東インド会社の商館が移され,武装と宗教活動が規制されて,貿易が許可される.
出島にはオランダ人15人前後と通詞ほか出入りの日本人100人程が居住することになった.その後約200年間,出島は来航するオランダ船を通じて世界との唯一の交流の場となる.
鎖国と呼ばれる形の交易である.シーボルトの蘭学もここからもたらされた.オランダ東インド会社というのは2万5千人の従業員をかかえ,中国,インド,東南アジア全域を相手に
交易を行う権益と軍隊を持った会社であり,中国から生糸,絹織物,インドから縞木綿などの繊維製品の他,東南アジアの各地から鹿革,鮫革,染料,黒漆,ニクズク,丁字,樟脳などが
日本に持ち込まれた.
長崎湾はさらに埋め立てられ,今では出島は島ではなくなっている.広い道路の内側よりの所になった出島は現在,発掘され,復元されているところだった.
当時の蔵や建物が復元され,ミニチュアの出島が展示されている.
 
出島

 
 明日は毎日新聞社の樋口さんに原爆関連の場所を案内してもらうことになっているので,今日の内にタクシーで長崎歴史文化博物館を訪れることにした.
企画展として,中国福建博物院展(日中国交正常化40周年記念,長崎福建省友好30周年記念)が開催されていた.常設展としては,西欧との出会い,
長崎貿易の他,長崎奉行所の展示がおもしろかった.密貿易,キリシタン取り締まりなど奉行所の職務や役割,御白洲の展示,シーボルトが禁制品を
持ち出そうとして裁かれた例や町人の事件の展示など興味深く,閉館最後の人となってしまった.外はすでに暗く,奉行所外観の写真がうまく撮れなかったのが残念だった.
 
長崎歴史文化博物館

 
 10月12日(金)

樋口さんは記者会見の仕事が入って残念ながらお会いできなかった.ホテルをチェックアウトして車で眼鏡橋や諏訪神社を訪ねながら原爆資料館,平和公園,浦上天主堂に行く.
眼鏡橋はポルトガル人によって伝えられた日本最古のアーチ型石橋.諏訪神社のくんち祭は10月7-9日のため,この間のホテルが取れず,私たちは予定を1週間延ばしたのだ.
諏訪神社の広場はくんち見物席の解体作業中だった.長崎が隠れキリシタンの地であるから一層,神社の祭りが盛大に行われたというのが樋口さんの説である.
 

諏訪神社

 
眼鏡橋
 原爆については告発の広島に対して祈りの長崎というイメージがあるが,それは長崎が隠れキリシタンの地であったということと深く関連している.
信者はキリスト教弾圧で苦しめられ,原爆投下で「またしても」という苦難を強いられたのだ.
原爆資料館の展示では,原爆の投下が,計算され正確な地点に投下されたのだということを初めて知った.山に囲まれたこの地で,原爆の爆風がどのように
最大の被害をもたらしたかが詳しく解説されている.
中国,ソ連をはじめとした各国寄贈の平和像などもあり,長崎の原爆関連モニュメントは広く点在している.
 
 
人生の喜び-チェコ寄贈-

佐世保を通って平戸へ向かう.佐世保では浦頭引揚記念資料館に行く.
第二次世界大戦終結後,浦頭埠頭には海外から約139万人の引揚者が到着した.この中には満州からの引揚者も多く含まれる.
1986年,旧検疫所跡地を見下ろす丘陵部に引揚記念資料館が開館した.引揚者たちは引揚援護局本部までの約7kmの道のりを徒歩で移動し,諸手続きの後,
引揚列車によりそれぞれの郷里へ戻った.浦頭埠頭は佐世保よりかなり南に位置し,引揚援護局本部が現在はハウステンボスになっている.

   
 
平戸は九州西端の島であり,九州とは平戸大橋で結ばれている.室町時代,1550年,南蛮船が初めて姿をみせてから,長崎にオランダ商館が移されるまで
平戸は南蛮貿易の拠点港として栄えてきた.フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教を始めたのが1550年である.

平戸城
 
聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂

 10月13日(土)

江戸時代,1609年に平戸オランダ商館は設置され,貿易の拡大に伴って,1639年には石造りの倉庫が建設された.しかし,50センチ四方の巨大な柱とオランダ塀といわれる
石と漆喰の頑丈な壁に囲われた頑強な建物は徳川幕府に警戒され,さらに建物に書き込まれていた西暦がキリシタンと疑われて倉庫の破壊を命じられた.
1941年にオランダ商館は長崎出島に移転する.たった2年間の短い寿命であった.
今,オランダ商館は復元され,金銀蒔絵の漆器などの輸出工芸品,南蛮船の模型,外国人と結婚し追放された女性が密かに故郷に書き送った布製の手紙(ジャガタラ文)
などが展示されている.松浦史料博物館にも数多くの資料が展示されている.
平戸城は平戸藩主松浦氏の居城であった.小高い丘陵の上に建つ平戸城からはオランダ商館や平戸大橋なども見わたせる.
平戸オランダ商館,松浦史料博物館,聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂から平戸城まで,散策路は美しく整備されている.


オランダ商館


オランダ東インド会社ロゴ
 帰路は「フェリーではエンジン音で良く眠れず却って疲れる」と言う正さんの意向で予定を変更して,関門トンネルを通り,ずっと車で家まで帰り着いた.夜中12時過ぎに帰宅.

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