ホロコーストの記憶-1

第2次大戦中に殺されたユダヤ人犠牲者数は約600万人と言われている.そのうちの約100万人がアウシュヴィッツ収容所で殺害された.
近代民主主義が最も進んでいたヨーロッパで,ゲーテやヘーゲル,コッホなど著名な詩人や哲学者,科学者を数多く生み出したドイツでなぜ人類最大の惨事が起こったのだろうか.

※ ホロコースト:大虐殺,特にナチスによるユダヤ人の大虐殺.
「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由への道)
[アウシュヴィッツ1号]

アウシュヴィッツ収容所正門に掲示された文字である.囚人たちは働きに行かされた工事現場や近くの工場から帰って来る時には,毎日この下を通った.ナチス親衛隊(SS)隊員が何千人もの収容者の数をよりスムーズに数えることができるようにするため,音楽隊が近くの広場で行進曲を演奏した.音楽隊は収容者の音楽家で構成されていた.
収容所建物 [アウシュヴィッツ1号]
1940年に設立された施設,途中で増設され,最終的には厨房と管理棟を除き,28棟の建物があった.当初は男性用であったが,1942年には女性用も設けられた.ナチス親衛隊(SS)隊員による毒ガス殺害実験,人体実験,銃殺が行われた.収容者の特別監獄やアウシュヴィッツ収容所を管理するSS幹部とSS事務所のほとんどがこの敷地内にあった.戦後60年以上経ったいま,かつて収容者たちが植えたポプラが大きく育ち施設を囲んでいる.当時の殺伐とした状況は想像するのみである.
厨房施設 [アウシュヴィッツ1号]

1人1日当たり1300〜1700calと計算された食事がこの厨房で作られた.それは人間が約3か月間かろうじて生き伸びることができるとされた量であった.収容者は酷使され,やがて死に至った.
監視塔 [アウシュヴィッツ1号]

鉄条網の外側に監視塔があった.昼夜を問わず銃口が向けられていた.
鉄条網の間を照らす照明灯
[アウシュヴィッツ1号]

収容所は電流の流れている2重の鉄条網に囲まれていた.夜はその間を照明灯が照らしていた.
死のライン [アウシュヴィッツ1号]

この線を越えることは死を意味していた.
死の壁 [アウシュヴィッツ1号]

抵抗を続けた英雄たちはこの「死の壁」に連行され銃殺された.収容所で処刑された人の数は6000人と言われている.処刑された死体の処理は収容者たちが行った.
死の門上部3階から見たBU区域
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]

収容所全体は視界に入らないほど広い,最大の絶滅収容所である.面積は1.75ku(53万坪・東京ドーム37個分),300棟以上のバラックがあった.木造であったため,煉瓦造りだった暖炉と煙突しか残っていない.1944年8月の収容者の数は10万人に達していた.
鉄道引き込み線・降車場(ランペ)
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]

ナチスによって占領されたヨーロッパの国々からいく日も貨物車両に閉じ込められ,送られてきた人たちはこのランペに着くと貨車からおろされ,男女別に分けられた.ナチス親衛隊(SS)医師によって25%の人が労働力として選ばれ, 残りの人は前方にある消毒室とされたクレマトリウム(ガス室・焼却炉)に誘導された.
(送られてきた人たちは東ヨーロッパに移住させられるだけと思っていた.特にギリシャとハンガリー のユダヤ人たちは騙され,存在しない農場,土地,商店などをナチスから購入したという.)