ホロコーストの記憶-2
監視塔
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]
鉄条網には350ボルトの高圧電流が流されていた.
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]
収容所内部(T)
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]

3段ベッド,1段を2人以上で使わされた.
収容所内部(U)
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]

この施設はトイレ,被収容者たちは粗悪な食事によりお腹を壊し,頻繁に行かねばならなかった.その煩雑な対応を避けるため,集団で決められた時間ごとにこの中に入れられた.
第Uクレマトリウム(ガス室・焼却炉)の残骸
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]
この建物に入れられた収容者は「シャワーを浴びる」と言われ,脱衣場で服を脱がされ,石鹸を持たされシャワー室に見せかけた部屋に入れられた.天井には水が出たことのないシャワーが取り付けてあった.ドアが閉められると天井の穴からは水ではなくチクロンBの入った缶がSS隊員によって投げ込まれた.中の人は15〜20分で窒息死した.死体からは髪の毛が切りとられ,指輪とピアスがはずされ,金歯が抜かれた後,焼却炉に運ばれた.衣服はポーランドに開拓団として移民したドイツ人に供され,金歯からは金の延べ棒が作られ,他の貴金属とともに,国に納められた.髪の毛は織物にされ,マットレスや布地にして売られた.死体が焼却された後,残った灰は廃棄されるか,肥料として使われた.これらの作業を行ったのは特別班と言われた収容者たちだった.かれらにとっては生き伸びるための労働であった.
チクロンB
粒状のシアン系劇薬で元来殺虫剤として使われた,酸素と反応し青酸ガスを発生する.5kgのチクロンBで1500人から1700人の殺傷能力があったという.現存の書類からアウシュヴィッツに入庫した量は害虫駆除を目的としたものを含め,25トンになると推定されている.
第Vクレマトリウム(ガス室・焼却炉)の残骸
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]
アウシュヴィッツ収容所司令官ルドロフ・ヘスの処刑場
[アウシュヴィッツ1号]

アウシュヴィッツが解放された後,元収容所長は「私は命令されてやっただけだ.私も犠牲者だ」と言った.しかし,囚人であった人たちはこの言い分けを許さなかった.ポーランド最高人民法廷は死刑を言い渡し,彼の元住居の敷地であったこの場所の絞首刑台で1947年4月公開処刑された.彼は花と馬(乗馬の)を愛する人物だったという.普通のドイツ人がどのような気持ちでこの残虐な行為を行いえたのだろうか.ドイツ人はナチス・ドイツの時代にどう生きたのだろうか.
慰霊碑には花が絶えない.
[アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ]
アウシュヴィッツを見学訪問する若者たち
[アウシュヴィッツ1号]
近年,年間 100万人以上の人がアウシュヴィッツを訪問している.ベルリンの壁崩壊,そしてEUの拡大とともにヨーロッパ各地からの訪問者が増えた.その中でも青年たちの多いことが注目される.教師らに引率されヨーロッパの各地から大型バスでやってきている. (アジアからの年間訪問者数は日本5000人,韓国25000人)
アウシュヴィッツは1979年にユネスコの世界遺産に登録された.その名称は「アウシュビッツ・ビルケナウ-ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所」となっている.

アウシュヴィッツの犠牲者数
(犠牲者はユダヤ人だけではなく,ナチスにとって不都合な人たちすべてが対象となった)

民 族

殺害された人数

ユダヤ人

1,000,000

ポーランド人(社会的リーダーたち)

75,000

ロマ・シンティー(ジプシー)

21,000

ソ連軍捕虜

14,000

その他(エホバの証人,同性愛者など)

15,000

合計

1,125,000

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館資料(2009年版)

アウシュヴィッツ収容所の概要


アウシュヴィッツ収容所はナチス・ドイツ占領下のポーランドのオシフィエンチィム市(ドイツ語名アウシュビッツ)に造られた.この地は当時ドイツが支配したヨーロッパの中央に位置していた.アウシュヴィッツ1号収容所は1940年に設立され,当初はポーランド人政治犯(社会思想の指導者,知識人・文化人レジスタンスなど)を収容するためだったが,その後,ユダヤ人,ジプシー,ソ連軍捕虜などが収容されるようになった(収容者数は12,000人〜20,000人).
“ユダヤ人”は性別,年齢,職業,国籍と政治的思想を問わず,ナチスの基準で“ユダヤ人”であるという理由だけで連行され,当時ドイツの支配した国の収容所(北はノルウェー,南はギリシャ,西はフランス)から最終的にここへ送られてきた.
収容所内では囚人の管理(と支配),施設の建設と管理,給食から遺体の処理まで,ナチス親衛隊(SS)の監視のもと,収容者自身に行わせた.それらの作業のすべては数値化され,書類となって報告された.ドイツ人は現場を知ることなく,その書類を管理するのみであった.
アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ収容所は1941年にアウシュヴィッツ1号収容所から3km離れたプジェンカ村に建設され,収容者数90,000人以上の最大の収容所となった.さらにその後,囚人の労働力を活用するためアウシュヴィッツ3号・モノビツェ収容所(11,000人)と47か所の副収容所が作られた.主収容所近郊には工場誘致が行われる一方,副収容所施設は炭鉱や製鉄工場,その他の企業や農場の近くに造られた.ユダヤ人から財産,持物のすべてを取り上げただけでなく,労働力まで奪い取る施設が作られたのである. 1942年以降,これらの収容所はヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅センターとなった.
老人,病人,妊婦,子供をはじめSS医師の選別で労働に適さないと判断され人々は列車で送られてきた後,すぐにガス室で毒殺され,被収容者としての登録さえも残されていない.
このようにシステム化された絶滅工場がアウシュヴィッツ建設の1940年からドイツの敗戦の年,1945年1月まで稼働したのであった.

アウシュヴィッツ収容所遺跡からのメッセージを考える.


ナチスは第一次大戦後誕生したワイマール共和国においてその民主的な選挙制度(比例代表制)のもとで議席を獲得し,合法的に政権を獲得した.選挙での支持率は最大でも37%だった.民主主義の制度があったにもかかわらず,多数とは言えないこの勢力がなぜ国の権力を思いのままに掌握し,ドイツ国家を動かし,ヨーロッパの多くの国を巻き込み,ホロコーストという残虐非道な行為を行い得たのであろうか.そして,第2次大戦後のドイツ,ヨーロッパの国々はこの問題をどのように受け止め,今を,そして未来をどのように歩もうとしているのだろうか.私たちの国も60数年前の戦争の時代にはナチス・ドイツと軍事同盟を結び,またアジアの国々に対し加害者となった大きな責任をもっている.私たちもまた,この遺跡からのメッセージを受け止め,未来にむかって共に考えていく必要があるのではないだろうか.