戦争の歴史と向き合う国・ドイツ

 日本は第二次世界大戦においてアジアの国々に2000万人以上の犠牲者を出した.その戦争責任をあいまいしてきた日本は,大戦終結から70年以上経った今も他国から戦争責任,その歴史認識を問題にされ続けている.一方,第二次大戦の同盟国であるドイツはナチスの時代,ヨーロッパ諸国への侵略戦争,ユダヤ人に対するホロコーストで計り知れない犠牲を出し傷跡を残した.そのドイツは戦争の責任と歴史にどのように向き合っているのだろうか. 2013年6月末〜7月初にドイツ国内のナチスドイツに関連し保存されている遺跡などを取材した.

 ニュルンベルク

ニュルンベルグ中央広場
ニュルンベルグ旧市街は城壁に囲まれている.
第二次大戦でこの街の90%が破壊されたが,
昔とおりに復元されていた.
中世の頃の中央広場の様子
(フェンボーハウス展示より)
ナチス時代,ハーケンクロイツの旗が林立していた.
(聖セルバドゥス教会展示より)
ドク・ツェントルム(ナチス党大会会場跡)
ニュルンベルグ中央駅からトラムで10分の場所にある.
ナチスの党大会は1933年以降この場所で開催された.
会場の入り口門(左)と集会に使っていた演台.
建物の周囲は回廊になっていた.
ツェッペリンフェルト野外大集会場跡
ドク・ツエントルム(ナチス党大会会場)の近く,池を挟んだ
東対岸にある.
ここでナチ党の大規模な野外集会が開かれた.
ナチス党大会の様子
(ドク・ツェントルム歴史博物館の展示から)
ニュルンベルグ裁判所
第二次大戦におけるドイツの主要戦争犯罪人に対する
連合国の国際軍事裁判はナチスの本部のあったニュルン
ベルク600号陪審法廷で開かれた.史上初めての戦争
犯罪に対する裁判で、平和に対する罪および人道に対する
罪が問われた.

600号陪審法廷入り口,中には博物館があり,見学コースにも
なっているが,現在も裁判に使われている.
ゲーリング,ヘスらナチスの主要戦争犯罪人はこの法廷で裁かれた.裁判は1945年11月20日から1947年10月1日までここで開かれた.
フランクフルト
ゲットーのユダヤ人墓地
フランクフルトにもゲットーがあった.
現在,その跡地は発掘され,その一部を保存し,ユダヤ
人街記念館を造り,中世から近代に至るユダヤ人の生活
を紹介していた.記念館に隣接した場所に墓地はあった.

ゲットー
中世から近代にかけて設けられたユダヤ人の強制居住区域.

墓地の周囲の塀にはナチス時代にフランクフルトから強制
収容所に送られた犠牲者1万人のプレートがはめ込まれていた.
死亡日不明のプレートも散見された.
ベルリン
ザクセンハウゼン強制収容所
ベルリンの北約30kmの町,オラニエンブルグにある.
入り口の鉄の門扉には「労働は自由をもたらす」と書か
れた文字がある.
初めのころは共産党員や社民党員などの政治犯やジプ
シーなどが送られてきていた.水晶の夜事件でユダヤ人も
移送されてくるようになり,その後各地の占領地で逮捕した者も続々と送り込まれて数が急増した.
最終的にザクセンハウゼンへ連れてこられた人の総計は20か国20万人を超えたという.

水晶の夜事件
1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動である.
収容者たちが引いた石のローラー.
収容所を取り囲む鉄条網 「杭」の罰のための木の柱
木の柱に囚人を後ろ手で組まされた状態で足が地から離れるまで
吊るしあげ、腕がねじ上げられた状態にする.さらにその苦痛の
姿勢のままで数時間にわたり親衛隊員に殴りつけられる罰である.
独房,収容されていた人の写真が飾ってあった.
ポツダム
ポツダム会議場
旗の立てられた位置に連合国首脳が座った.ソ連は
スターリン書記長,イギリスはチャーチル首相,
アメリカはトルーマン大統領.
ツェツィーリエンホーフ宮殿
第1次世界大戦中の1917年,ホーエンツォルレン家最後の皇太子,
ヴィルヘルム2世のために建てられた.ホーエンツォルレン家のプロ
イセン王国は,完成の翌年に消滅ししたが,その後もヴィルヘルム
2世と,その家族が過ごした.

この宮殿でナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日〜8月2日に米国,
英国,ソ連の3カ国の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を
決定するための会談ポツダム会議が行われた.また7月26日には
日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明された.日本はこの宣言の受諾の意思を8月14日に連合国に伝え,8月15日に玉音放送で国民に伝えた.
日本がこの宣言を受け入れるまでには8月6日広島,8月9日長崎への原爆投下を経て,実に19日間を要した.

 ドイツを訪問して

ポーランドのアウシュビッツを訪問してこの会場に「ホロコーストの記憶」として展示したのは2009年であった.それから後,ホロコーストの加害国であるドイツでは,加害の歴史をどのように
後世に伝えていいるのか知りたいと思っていた.このたび短い期間であったがドイツ訪問が実現した.
今回のドイツ訪問時に取材した(広いドイツの一部)フランクフルト,ニュルンベルグ,ポツダム,ベルリンのいずれの地でも悲惨な戦争の遺跡が保存され,モニュメントや付属の記念館が
併設されていた.
かつて日本と同盟し2次大戦を戦ったドイツは「欧州から戦争を防ぐ」,「狭隘な民族主義をどう克服するか」の理念的土台を形成したEU(欧州連合)の中心国となっている.これは過去の
戦争がヨーロッパにもたらした惨禍の上に立脚した理念である.私が見たのはほんの一部にすぎないが,自らの過去を告発する遺跡を保存し,モニュメントを造り,再び悲惨な戦争を
繰り返すまいとする努力の表れであろうと感じた.ここにEUの中心国としての役割を続けているドイツの原点があるのだろう.

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