ずい分遠くまで来ていた.皆の馬が調子よく歩き出すとフルレはよくとおる声で歌を歌い始めた.日本の民謡にもどこか似通ったような懐かしいメロディー,そして草原を駆け抜けるような軽快なリズム,フルレは沢山の歌をうたってくれた.左手の奥に馬の群がいる.フルレは遠くに見えるその馬の群をこちらから呼び寄せると言う.「ピエー,ピエピエー」先程のあのよくとおる声でフルレは歌い始めた.すると馬の群にかすかに振動が伝わった.群から少し距離を置いていた2頭が群の方に寄っていく.広がっていた群がなんとなく引き締まる.「ピエーピエー」フルレがさらに声を上げると,ほんとうに馬たちはこちらに向かって駆け出した.
草原にはねずみが穴を掘って住んでいる.その穴を馬の蹄が踏み抜くと馬はカクッとなり,乗っている人はオットとバランスをくずしそうになる.賢い馬はねずみの穴を除けて通るが,穴が並んでいると除けきれないし,時には両方の前足がはまることもあるので気をつけなければならない.道になっている所は駆けてもいいが,草原の,特に砂地の多い所はあぶないから走らないようにとフルレは注意した.草原にはねずみの穴のほか,タラバガンの巣穴もあった.少しこんもりした所にねずみのよりはわずかに大きい目の穴があいている.草原には時に,頭蓋骨もころがっていた.牛のものだろうか.草原の草と同じ高さに,頭蓋骨だけが,いつまでもいつまでもそこにころがっている.
「たろうだ!」不意にフルレが叫んだ.タラバガンがいるらしい.「丘の向こうの茂みの横」「何処?遠くなの近くなの?」「そこだ!」でも,草原が重なり合って連なっている景色しか私には見えなかった.
モンゴルの1日は長い.8時の夕食後もあたりはまだ明るかった.馬の群が川へ水を飲みに来ている.モンゴルでは牛も馬も,自分で考え,自分で行動している.一瞬,足下へ目を落として再び目を上げると,もう馬の群はどこを探してもいなかった.こんなに広い草原のどこに隠れてしまったのだろう.突然メエメエとたくさんの騒がしい声が聞こえてきた.遠くの丘に白や黒の羊たちの姿がみえる.彼らの声が風に乗ってやってくるのだ.モンゴルの距離を言い表す単位に「白い馬と黒い馬を見分けられる距離」という言い方があるそうだ.「羊の声が聞こえる距離」なんてのはどうだろう,でも風しだいなのであてにならないだろうな.
夜10時日没の頃,ガンズルクが馬でやってきた.デールを着た彼は,少年だが馬の扱いがとても上手い.そのまま馬で川を渡って行く姿はとてもかっこよかった.友達が川の中州でつりをしているらしい.川まで降りていって眺めているとオットバイエルがやってきた.フルレのお兄さんである.手にはタラバガンを持っている.太ったねこ位の大きさの頭のない毛皮と,暗いのでよく見えないがその頭の部分から取り出した内蔵がそばに並んでいた.これを熱くした石で焼くのだそうだ.タラバガンというのは草原に穴を掘って住んでいるプレイリードッグのような動物で,毛皮も珍重されるし,食用にもなるという.タラバガンで財産を築いた人もいるということで,ウランバートルの公園にはタラバガンの像まで建っていた.彼らにとっては迷惑な話かもしれない.彼らはとても好奇心が強く,棒の先に布きれを巻き付けて草原で振ると,何だろうと巣穴から顔を出すので,それをねらって銃で撃つのだとオットバイエルは教えてくれた.でもまだ今は禁漁期だそうだ.

つづく

目の前を大きな鳥が飛んだ.珍しいなあ,なんて鳥だろうと思っていると,フルレが「危ないから待っているように」と言った.馬が驚いて怖がるといけないので,先に行って追い払ってくるという.見ると沢山の鳥が群がっていて,追い立てられて飛び立っていった.が,まだ残っているものもいる.ようやく最後の一羽がゆるゆると飛び立っていったので近づいていくと,皮と骨の,半分だけになった馬が横たわっていた.はげわしだったのだ.お兄さんの馬だという.「昨日の夜,狼にやられたらしい」とフルレは言った.
どの道をどこまで来たのだろう.たくさん山を越えて,ずい分遠くまでやって来た.しかし馬たちは帰り道を良く知っているようで,何も言わなくても先頭の馬についてトコトコ歩いていく.丘のはるか向こうにゲルが見えた所で馬たちの足取りは一層速くなった.
オットバイエルは私たちに魚釣りを見たくないかと聞いてきた.どんな魚が釣れるのかと聞くと,腕を出して,肘から先位の大きさの魚を釣るという.モンゴルでは魚は魚であって,名前はないらしい.どういうわけか知らないがモンゴル人は魚をたべない.つりをするのだから,川に魚がいないわけではないのだろうが,釣った魚はどうするのだろう.ともかく肉にはいろいろ名前があるが,魚は「さかな」だそうである.そういえば,ウランバートルのホテルでは鰯のような魚のムニエルが出てきたが,ここ,ウンドルシレットキャンプ場の食事には魚は一度も登場しない.この川でどんな魚が釣れるのかとても興味があって,私たちは12時に再びここで落ち合う約束をした.
1時間ばかりゲルに戻って休憩した後,風が冷たいので,長袖シャツの上に上着を2枚,ずぼんも2枚重ね着をして,約束の川縁へ降りて行った.オットバイエルはまだ来ていなかった.ツールが寒そうにやってきた.一晩中,草原にはこんな風が吹いているのだろうか.満月なので星明かりは少し薄れるが,雲の切れ間に,さきほどよりはたくさんの星が輝いていた.守君が持っていた性能のいい双眼鏡を借りて夜空を見上げるとさらに星の数が増えて,どれが北極星かもわからなくなった.突然足音もなくオットバイエルが現れた.手と口の周りが油でぎらぎらしている.先程のタラバガンを焼いていたのでちょっと遅れたのだと言い訳しながら,私たちにもその肉を食べるようにと勧めてくれた.正さんが苦労して食べるのを見ていたが,私も彼が引きちぎったかけらをもらって口に入れてみた.するめのような味がして美味しかった.今度はオットバイエルが小さく切ったかけらを私にくれて「全部食べられるから食べろ」と言う.香ばしいウインナーのような味がした.平たい固い部分も噛み砕くとバリバリと食べれた.これはどこなんだろう.暗闇のごちそうだった.
やがてオットバイエルは草原の草で手の油を拭くと,つりの準備を始めた.針にこおろぎを3匹並べて付けると,また,腕を見せて,肘から先位の大きい魚を釣ると言って,自信たっぷりに川縁に降りて行った.私たちは音を立てないように後からそっとついて行って,少し離れた川縁に腰を下ろして暗い川面をじっと見つめた.夕暮れに川面を飛んでいた白い羽の羽虫ももう見えなかった.時折,川の中州でドーンと鈍い音がしたが,その大きなさかなが跳ねたのであろうか.草原を渡ってくる風はますます冷たかった.