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納屋

「不思議な誰かの落とし物」 


 「あのモジュールがあれば...」
 「あの時軸変調モジュールさえあれば戻ることが出来る」
 「今がどんなに辛くても、寂しくても、あのモジュールさえあれば全てをあの時点へ戻すことが出来る」
 ずっと耐えることが出来たのはその最後の切り札があったからだった。しかしその切り札を探し始めてから既に18年が経っていた。

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 「おーい、ちょっとこっちへ来てみな」
 夫は離れの納屋から妻の今日子を呼んだ。
 「なあに? 今、手が放せないの」
 縁側で赤ん坊の世話をしながら今日子が答えた。
 「さあ良太ちゃん、おむつ取り替えてあげまちゅからね。あらまあ、くちゃいくちゃい」
 今日子はおむつの取り替えに奮闘中であった。
 その今日子を大声で呼んだ夫は「田所義男」という。


 この夫婦二人は同郷の幼なじみである。
 義男はこの田舎で生まれ育った根っからの田舎者で、見た目も中身も「純朴」そのもであった。
 義男の実家はこの田舎で園芸や造園用の樹木や芝などを育てて生計を立てている。義男もこの芝や樹木といっしょに自然の中で育った。
 丸めた芝や肥料袋の運搬など子供の頃から日常的に手伝いをさせられ、そのおかげか義男は人一倍体格が良かった。見る者を威圧する逞しい体つきをしている。
 しかし性格はいたって温厚であり「お人好し」でもあった。元来人に頼まれたらイヤと言えない性格もあっていつも損ばかりしてきた。
 しかし損ばかりではなかった。今日子を妻に娶ることができたのは義男の地味な誠実さ以外の何者でもなかった。

 一方今日子はこんな田舎には似つかわしい都会的な美人であった。
 細く美しく均衡のとれたスタイルをしており、まるでファッション雑誌から抜け出たようであった。現実に街角でスカウトに呼び止められるということが何度かあったほどであった。

 その今日子の経歴は少し変わっている。
 発見された時から身寄りが無く、いわゆる孤児であった。
 「発見された」というのは、実は一種の記憶喪失のような状態で、ある日突然義男の住む村へ現れたからなのだ。
 今日子の第一発見者は義男である。

 今をさかのぼること18年前、当時小学3年生の義男が一人道端で遊んでいると、泣きべそをかいて歩いている今日子がやってきた。
 「どうしたの」と聞いてもその子はただ泣きじゃくるだけだったので少年義男は放っておくことも出来ず「泣くなよ、ほら、元気出しなよ」などと慰めながら仕方なく自分の家へ連れて帰ることにした。
 いくら慰めても泣きやまないその子に感情移入したのか、家へたどり着く頃には義男もいっしょになって泣きじゃくっていた。
 連れて帰って義男は「これこれしかじか」と親に事情を説明したのだが、それからの義男の両親が大変だった。うちの馬鹿息子が人様の娘をさらってきてしまったのではないかと大騒ぎになったのだ。あらぬ疑いをかけられた義男はしょげてしまって離れの納屋の中に一人こもってしまった。

 確かにその子は思わずさらってしまいたくなるような愛くるしい面立ちをしていた。
 義男の両親は近所中に心当たりを聞いて回ったが、それで答えが得られなかったので結局は警察へ届け出ることになった。その女の子はハイカラな服を着ており「どこか都会からの行楽客の迷子ではないか」と義男の両親が警察に保護願いを出したのだ。
 しかし迷子や尋ね人などの依頼も通報もなく、一体どこの誰なのか突き止めることが出来なかった。

 本人に聞いても家族や親戚の記憶が全く無い様子で何も答えられず、なおかつ自分の名前すら答えられなかった。
 突然子供がいなくなることを「神隠し」と言うなら今日子の場合は「逆神隠し」とでも言うのだろうか。

 狭い田舎だったので今日子のことはあっという間に知れ渡った。しかし一向に手がかりすら掴めず義男の両親も我が事のように心配する日々が続いた。
 村の者は「何の事件に巻き込まれたかは知らないが、まあこの子の気持ちが落ち着けば忘れたことも思い出してそのうち万事解決できるだろう」と呑気に構えていたが、その後今日子から「逆神隠し」の真相を明らかにするようなものは何も引き出せなかった。

 本来は町の孤児院へ引き取られるところであったが、村長夫婦が養子扱いで引き取ってくれることになった。村長夫婦は子供に恵まれていなかったこともあって、義男の両親が持ちかけた相談に二つ返事だった。
 引き取られていったその子は自分の名前も言えなかったので『今日から私達の子』という意味を込めて「今日子」という名前が付けられた。

 村長夫婦はその背格好から「小学校の中学年ぐらいだろう」と判断し、義男と同じクラスに通わせることにした。
 今日子は学校に通い始めてもしばらくの間言葉を話すことが無く、何かひどいショックが原因の失語症ではないかと噂されたりもした。
 そのせいかなかなか友達も出来ず、逆に何も文句を言い返さない今日子は子供達の間で格好のいじめの対象になっていた。いじめと言っても今の時代のような陰湿なものではなく、「やーいやーい」とただ冷やかしたり、可愛いい子の気を引くのが目当てのちょっとした悪戯だったりと他愛のないものではあった。

 その時分、義男はよく今日子の面倒をみた。最初に発見した責任感みたいなものもあっていじめから守ったり、友達のいない今日子といっしょに遊んだりしてあげた。
 4人兄弟の末っ子である義男にはかわいい妹か子分が出来たようなものでいつも今日子を連れて、そしてある時は連れられて行動を共にした。
 今日子は散歩や山歩きが好きで、義男も村の案内もかねてよく付き合ってあげた。ただ草むらの植物を観賞したり、昆虫を探したりするだけであったが、日が暮れるまで付き合わされる事も度々であった。

 その今日子が、発見されて以来初めて口を聞いたのも義男が最初だった。
 「今日子ちゃん、今日はどこへ行こうか、山? 川?」
 「...ヤマ」
 「そう、今日も山か...えっ! 今、山って言った? 言ったよね」
 「ヤマ」
 「そうだよ、あれが山だよ、やっとしゃべれたね! もう一回言ってごらん、『ヤマ』」
 「ヤマ」
 「よーし、じゃあ今度は『キョウコ』って言ってごらん。『キョウコ』ほらっ」
 「ヤマ」
 「...そんなに山へ行きたいんだ」

 一度言葉を発すると、あとはどんどん堰を切ったようにしゃべり始めた。義男はこの功労がたたえられ、村長から涙ながらに誉めてもらったものだ。
 今日子には隠れた才能があったらしく、その後の学業は非常に優秀であった。
 いじめられっ子の今日子がいつの間にかみんなから一目置かれる村一番の天才少女になっていた。

 そんな今日子は驕り高ぶることもなく、素直で聞き分けの良い子へと成長していった。誰からも好かれるようになり、現代版シンデレラと言った風であった。
 そうなってくると兄貴分である義男は鼻高々である一方、何の取り柄もない自分が恨めしくて心中穏やかではなかった。

 成人してからも村の若い男どもの間では常に一番人気で、キャンプやパーティ、催し物など色々と誘いを受ける今日子であった。
 しかし何処へ行くにも今日子は必ず義男を同伴させていた。
 どこへ行っても今日子は注目の的でちやほやされるのだが、一方義男はいつもおまけで厄介者扱いされていた。そんな義男はまるで用心棒か召使いのようであった。

 長年にわたって勝ち得た信頼というものはそう簡単に崩れるものではなかった。今日子はいつも子供の頃のように義男のことを慕っていた。
 義男が田舎を離れた都会に職を見つけたときは少し反対もしたが、結局は今日子も義男に付いていった。そして義男からのプロポーズは何のためらいもなく受けた。
 「美女と野獣」とよく回りから言われたりもしたが当人達がすこぶる幸せそうなのでそれはいつの間にか「おしどり夫婦」に変わっていった。

 結婚してすぐに二人の間に第一子が生まれた。良い子のまま太く長く生きて欲しいという意味で「良太」と命名された。
 今日は義男の実家へ初孫を見せに夫婦共々帰ってきていたのだ。


 おむつを取り替えておとなしくなった良太を抱いて、今日子は義男の呼ぶ納屋へ向かった。
 納屋の中では義男がうずくまって何かをじっと眺めていた。その大きな背中に遮られたせいで一体何を見つめているのか今日子はすぐには判らなかった。
 「なあに、何かあったの?」
 「ほらこの箱、今までずっと夢だとばっかり思ってたのがここにあったんだよ。この田舎で子供の頃に拾ったものなんだ。ほら、きれいだろう? 20年近くも前に拾ったやつなんだゼ」

 義男が子供の頃に拾ったと言うものは小さな箱であった。大きさはタバコの箱を二つ重ねたほどで、重さもそれほどであった。一体どういう素材で出来ているのか義男には判らなかったが、持つ向きを変えると微妙にその色を変える不思議な光沢を持っていた。
 その箱を眺める義男は、それを拾った18年前にタイムスリップしたかのような子供っぽい笑顔を見せていた。その箱は18年前と変わらない光沢を維持し続けていた。
 義男は当時の思い出に浸っていたのか、掘り出し物を手にしてばらくの間眺め続けていた。
 「そのあとすぐだよ、君に会ったのは。今までずっと忘れてたなあ」

 今日子はその箱を見るなりその表情が凍りついた。しかも体が小刻みにぶるぶると震え始めていた。その振動が不快だったのか腕に抱かれた良太がむずかり始めた。
 「こ...ここにあったのね!」

 その今日子のただならない雰囲気に義男が振り返った。
 「おい、どうした? どうかしたのか?」
 「あなたがこれを拾っていたのね...返して、そのモジュールを返して!」
 「返してって、一体何を言ってるんだい? これを拾ったのは子供の頃の話だよ、それに何だよ『モジュール』って。この箱を知っているのか?」
 「お願い返して、そのモジュールを、そのモジュールの持ち主は私よ。あなたに出会ったのもそのモジュールを探していた時のことなのよ」
 義男にはその意味がすぐには理解できなかった。しかしその言葉から今日子の秘密がこの小さな箱に隠されているらしいことは分かった。
 「こんな身近にあったなんて...」

 その時突然良太が泣き出した。その鳴き声はこの妙な雰囲気を中断させるかのようであった。
 今日子はその泣く子をあやそうともせず、不思議な生き物を見るかのようにただ眺めていた。
 「ほら泣いているよ、おっぱいが欲しいんじゃないか」
 しかし今日子は何もせず、じっと良太を見つめていた。

 先ほどから尋常ではない今日子の様子に何かあってはいけないと、義男は今日子から良太を取り返して抱き上げた。
 突っ立ったまま、今日子のまん丸になった目は取り上げられた良太を追いかけていたが、良太が義男の腕の中で泣きやむと今度はその視線が義男の方へ移った。
 「おまえ、ちょっと目つきがおかしいぞ」
 「...おかしくもなるわ。だって、ずっとずっと、それは気が遠くなるほど探し続けていたのよ。私がこの村へ来てから18年間、ずっと捜し続けていたのよ」
 そう言って今日子は、良太を抱く義男の脇に放り出されていたその小箱を素早く拾い上げた。
 「その箱は一体おまえの何なんだ? そんなに大事なものなのか?」
 「この箱は...」
 今日子はやっと取り戻すことが出来たその箱に思わず頬ずりをした。その光景が少し不気味で、義男は2、3歩身を引いた。

 「...この箱は時軸変調モジュールといって、ある機械の端末装置なの」
 「機械? 端末?」
 「その機械を使うと過去へ戻ったり未来へ行く事が出来る...」
 「タイムマシンのことか」
 「そうよタイムマシン、私はこのモジュールを使って未来からやって来たの」
 「み...未来から?」
 突拍子もない今日子の説明に義男は唖然とした。子育てに疲れて気が触れたのではないかと思った。

 「私の生まれたのは今から250年後の世界。最初は軽い旅行気分だったんだけど、この時代に到着するときに予想外の衝撃があって、気を失ってしまったの、気が付いたら帰ろうにもこのモジュールが見あたらなくて...でもやっと見つけることが出来た」
 「そのモジュールを俺が隠してしまったというのか?」
 「でもあなたいっしょになって探してくれたわね、すごく感謝しています...口も聞けない私にずっと付き合ってくれて...でも私は口が聞けなかった訳じゃなくてこの時代の言葉が解らなかっただけなの。日本語をマスターするのに半年もかかったわ、それに私は孤児じゃなく、ちゃんと両親がいるの、今の時代にいないだけ」
 「おまえ正気か? 今言ったこと作り話なんだろう。そうじゃなきゃ悪い冗談だぞ」
 「そうね、すぐには信じられないわね...でも全て本当よ、今からその証拠を見せてあげる」

 そう言って今日子はその小箱を両手で包むようにして持った。そして左右の手のひらを反対方向に回転させるようにねじってみせた。
 その箱は口を閉ざした貝殻が開くようにパカッと音を立てて開いた。それはお化粧をする女性がコンパクトを開くようにいとも容易い仕業だった。
 それを見た義男が小さく「あっ」と声を上げた。

 「驚いたでしょ? あなたが色々と叩いたりひねったりしたてもこの箱はびくともしなかったはずよ。だってこの箱は私だけにしか操作できないようにインターロックされているんですもの」
 二つに開いた箱の中からぼんやりと扇子状に広がった光線が今日子の眼前に像を映し始めた。その映し出された映像はコンピューターのキーボードのように沢山のスイッチが並んだものだった。
 今日子はその映像に手をさしのべ、名曲を奏でるピアニストのように手慣れた手つきで何かコマンドを打ち込み始めていた。
 「こんな機械が18年前にあったと思う? いいえそれどころか現代の科学でもまだ実現不可能なものよ。このホログラフキーボードは私の生まれた時代では子供の時から使い方を教わるの。今で言うそろばん塾みたいなものね」
 「そんなの見たことないよ」
 義男は今まで見たことのない映像とそれを意のままに扱う今日子の両方に当惑を隠せなかった。
「でも、一体何を打ち込んでるんだい? まさかそれを使って未来へ戻る訳じゃないだろう?」
 その言葉に今日子の手が止まった。

 義男の質問への率直な答えはおそらく残酷な返事になるだろうと思われた。今日子はそれを悟られないように遠回しの言葉を探していた。
「...今すぐ未来へ戻るわけではないわ。このまま未来へ帰っても私は25才の誰も知らない人になってしまうから」
 「じゃあ何もしないで、このままいつもの今日子でいてくれよ」
 少しの間今日子の視線が別の方へ行った。その義男の要望に「はい分かりました」と答えられない後ろめたさがあったためだ。
 「...でも私の故郷は未来。そこへ帰るために一つだけ方法があるの。私の戻る先はこの町の18年前。未来へ飛んでも私はこのままだけど過去へ戻れば私はあの子供の頃そのままに戻ることが出来るの...似たような映画があったでしょ。でも今度は子供の私が困らないようにこのモジュールに今までどんなことが起こったかインプットしたわ、子供の私がすぐにこのモジュールを探し出せるようにプログラムし直したの。今までの事を記憶に残して私は子供に戻るの、元の時代へ元の自分のまま帰るために」
 「そんな話があるもんか。じゃあ聞くけど、そのあと俺はどうなる?」
 「あとはないわ、私といっしょに元に戻るだけ」
 「元に戻るって、君は未来へ帰るつもりなんだろう」
 「そうよ、でも貴方はとっても優しくて頼りになって...いい人だからきっと私以外にすてきな人に巡り会えるわ」
 「俺はそんなのイヤだ、このままが良いよ。おまえ、俺といっしょなのが不幸せなのかい?」
 「いいえ、貴方と暮らせてとっても幸せだったわ。でももう私の正体が知られた以上、このままいっしょに暮らすことなんか出来ないの、あの時点へ戻ってやり直すしかないのよ」
 「でもおまえは自分の時代へ帰ってしまうんだろう」
 「私、帰りたいの! パパとママに会いたいの!」

 そう言った今日子の目から大粒の涙が一筋になって頬を伝った。まるで義男が初めて今日子と出会ったときのような泣きべそ顔になっていた。
 もし今日子の話が本当なら、両親と離ればなれで言葉も通じない見知らぬ土地で18年も暮らしてきた辛さは想像に容易い。おそらくずっと故郷に戻る日を夢見続けていたのだろう。
 今までそんなそぶり一つも見せたことがないだけに今日子の涙は真実を裏付ける説得力を持っていた。
 「わかったよ、君の思うようにするが良い。おまえも辛かったんだな、今までありがとう...だけど良太だけはおいていってくれないか」
 「だめなの、良太もいなくなるの...いいえ、いなくなるんじゃなくて生まれた事実そのものが無くなるの、だって貴方と私が出会わなければその子だって生まれないでしょ」
 「解るよ、だけどおまえそれで良いのか? 本当に良いのか? 良太が生まれたとき、あんなに喜んでたじゃないか。そのおまえがいなくなったら良太はどうなる、母親がいなくなるんだぞ」
 「違うのよ、私がいなくなってそれを悲しむ人なんかいないわ。だって私がここにいた記憶も事実もみんな無くなるんですもの。」
 「俺は忘れられないよ」
 「おねがい、それ以上言わないで、私を戻して、一番無邪気でいられたあの頃へ戻して!」
 今日子は思い出したように空間に浮いたキーボードへ何かを打ち込んだ。
 「よせ、今日子! 行くなー!」
 義男の制止の言葉に耳をふさぐようにしながら、今日子はその空間に結像した実行スイッチに右手を近づけた。

 今日子がそのスイッチを押すと、納屋の中はすさまじい光の中に包まれた。その目もくらむ強烈な光の中で義男は良太をその光から守るように抱きしめていた。そして義男はその光の中に今日子の影だけを追った。
 その強烈な光の中から「今までありがとう、さようなら」と言う今日子の声が聞こえた。おそらく最後の言葉にするつもりだったのだろう。

 しかし今日子は光の中で葛藤していた。
 我が子と夫をこれから置き去りにしなくてはならないのだ。
 <大丈夫よ、過去へ時間を巻き戻すだけよ、それで不幸になる人なんて誰もいないわ、だってこれはこの時代の人間ではない自分を元通りに戻す修復作業。あとはダイアルを18年前の位置に巻き戻すだけよ...>
 そう自分で自分に言い聞かせながら冷静を保とうとしていた。

 逆光の中の今日子を義男は力尽くでも引き戻そうとしたが目に見えない力に押されて近寄ることが出来なかった。顔と体はあさっての方角へ傾いていたが気持ちは今日子へ向かっていたので手だけは今日子の方へ伸びていた。
 そのじたばたともがく姿はあまりにも無様で滑稽でさえあった。良太は義男の片腕に抱かれて振り回されたので今まで聞いたことのないような鳴き声をあげていた。

 発光源の今日子にはその様子がよく見えていた。その取り残される親子の様子にいたたまれなくなり、ついに涙声で叫んだ。
 「もう私のことはあきらめて! 忘れてちょうだい!」
 義男は<忘れるものか>と思った。たとえ時間が巻き戻ったとしても愛する妻の事を忘れられるはずがないと思った、そんな理不尽なことはないと思った。
 そして義男は地面に這いながら人生最大の叫び声をあげた。
 「俺は忘れないぞ!」
 その言葉に、耳をふさぐ代わりに目をつむり、今日子はモジュールのダイアルを過去に巻き戻した。
 <俺は忘れないぞ>
 今日子には義男の最後の言葉が頭に焼き付いたが今日子以外はその時間と共に記憶も過去に巻き戻された。

   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「おーい、ちょっとこっちへ来てみな」
 夫は離れの納屋から妻を呼んだ。
 「なあに? 今、手が放せないの」
 縁側で赤ん坊の世話をしながら妻が答えた。
 おむつを取り替えておとなしくなった赤ん坊を抱いて、妻は夫の呼ぶ納屋へ向かった。
 「なあに、何かあったの?」
 「ほらこの箱、今までずっと夢だとばっかり思ってたのがここにあったんだよ。この田舎で子供の頃に拾ったものなんだ。ほら、きれいだろう? 20年近くも前に拾ったやつなんだゼ」
 そう夫が言う小さな箱は、持つ向きを変えると微妙にその色を変えた。
 夫は当時の思い出に浸っていたのかしばらくずっとその箱を眺めていた。
 「そのあとすぐだよ、君に会ったのは。今までずっと忘れてたなあ」

 妻は、夫の思い出に登場しているのであろう自分の子供の頃を思い起こしながら、黙って背後から見つめていた。そして夫がどんな言葉を返してくるのかを期待するように一つだけ問いかけてみた。
 「なぜ忘れたの?」
 妻のにこやかな笑みの奥には何かをチェックするための厳しいまなざしを含んでいた。
 「んんっ? さあ、どうしてかなあ...きっと拾ってすぐ君に会ったから、この箱のことなんかポーンと忘れちゃったんだな...おまえ可愛かったし」
 その言葉を聞いて妻は満足げな微笑みを返した。そしてその時、その箱はなお一層輝きを増したかのように見えた。
 妻の今日子にはそれがその箱の一仕事終えた合図だと判っていた。

 しかしそれを見た夫の義男はますます不思議そうにその箱に見入っている。今日子はそれを優しく見守りながら気のないフリを装った。
 「へえ...ほんと、不思議な箱ね」
 そう言って今日子は腕の中で心地よさそうにしている良太にこう付け足して語りかけた。
 「一体どこのおばかさんの落とし物でちょーねー」
 まだ言葉をしゃべられない赤ん坊の返事はなかったが今日子の笑顔が判るのか、良太は両手をぶらぶらさせながら可愛らしい笑顔を返した。

 今日子以外にインターロックされているその小箱は、その閉じた蓋を義男のばか力をもってしても開けることはなかった。再び今日子が手にするのを永遠に待ち続けるように。

                            「不思議な誰かの落とし物」完

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