modoru  home

零下の礼香

 「えーと、君ぃ、ちょっと上へ上がって、予備のトレーを取って来てくれないか」
 梅野マネージャーは近くにいた女の子を捕まえて指示を与えた。それまでその子は、何をしていいのか分からず、ただオロオロとしていた。
 「はい、...でもあの、トレーって何処にあるのですか?」
 「おっと、君は新人か。トレーは二階の冷蔵庫の中だけど、もし分からなければクルールームの誰かに聞いてさ。...あ、トレーというのはこの...」
 そう言って梅野マネージャーはグリルの上にあるステンレス製の盆を指差した。
 「...四角いヤツね。10枚ぐらい持ってきてくれ。このパレードが始まってからでは間に合わないだろうから今のうちに補充しておきたいんだ。ええっと、君は?」
 「はい、今日から入りました、浅野礼香と言います」

 浅野礼香は旭川中央高校の2年生。この夏休みに、ここ「マクデリア」にアルバイトを見つけた。
 この町ではなかなかバイトも見つからず、友人から厳しいくせに時給が安いと言われていたマクデリアにお世話になる羽目になった。
 マクデリアの方針で、未経験者をいきなり店に出すことはなく、最初の二日間は仕事のやり方をきっちりと教育される。スマイルの仕方、客の応対の仕方、注文の取り方、厨房への伝達の仕方、仲間との挨拶の仕方、ポテトの作り方や清掃の仕方など。
 礼香も昨日まで、そういう訓練を受けた後に、晴れて今日からはお店に立つ。その頭には見習いの証である白い帽子が載せられていた。

 その白い帽子が狭い階段を駆け上がる。
 2階は店内での飲食にお客様用に解放されたフロアー。そのテーブルの並ぶフロアーの奥には「クルールーム」と呼ばれるバイト生達の休憩所がある。従業員以外の立ち入りを禁止されたそのドアの、更に奥には、冷蔵庫や冷凍庫が置かれている広い倉庫があった。
 クルールームでは男子バイト生達が窓から身を乗り出して外の様子を眺めている。
 「もう始まったか? 招魂祭」
 「いやまだだ。旭時計の鐘が鳴ってからだよ」
 今日が初めての礼香にとって、そんな先輩達に気安く声を掛けることが出来なかった。横目でクルールームの中を見ながら奥の倉庫へ進んだ。

 「どっちかしら?」
 礼香は広い倉庫に二つ並んだ巨大な貯蔵庫を見つけた。一つは冷蔵庫でもう一つは冷凍庫のはずである。しかし礼香にはどちらが目的の冷蔵庫であるのかが分からなかった。
 そもそもトレーがなぜ冷蔵庫に置いてあるのか、その理由が礼香にはよく分からなかった。
 「ビールのジョッキなら分かるけど、トレーを冷やして何の意味があるのかしら?」
 しかしトレーは冷やすのが目的ではなく、雑菌の繁殖を防ぐために冷蔵庫で保管される。マクデリアではトレーに限らず、お客の手に触れるもの全てを冷蔵庫に保管する決まりになっていた。

 マネージャーから手渡され、礼香の手に握られたキー。まずは左側の貯蔵庫の鍵穴に差し込んでみた。
 「あ、開いたわ。良かったあ、こっちだったのね」
 礼香は大きな扉を開け、中を覗いた。
 中の冷えた空気が彼女の顔に当たり、思わず身震いする。中は暗い上に進入した外気が白く煙のようになり、一体どこにトレーが置いてあるのかすぐには分からない。彼女は中に入り、明かりのスイッチを探そうとした。
 その思惑と違い、照明スイッチは表側、取っ手の横にあったのだが今日が初めての礼香にはそんなことにも気づく余裕がなかった。
 「うーっ、寒い!」
 自分の身を抱いて身震いする礼香。その背後で、重い扉の閉まる音がズシンと響く。
 「まあ、真っ暗だわ。スイッチどこかしら?」
 手探りで照明スイッチを探すが、その手がガチガチに凍ったミートに触れた。
 「あら、ここは冷凍庫だわ。道理で寒いと思った」
 寒いのは冷蔵庫も冷凍庫も同じ事。しかしその温度差は大きい。
 冷蔵庫は0℃〜−3℃、冷凍庫は−7℃〜−13℃に調節されている。その寒さの違いは、東京と北海道の冬の違いほどもある。
 冷蔵庫と冷凍庫は同じ鍵を使う。自分の入り込んだ場所が間違いであることに気づき、礼香は引き返そうとした。しかし、その閉まった扉にはもっと重大な機構が隠されていた。
 「あれっ、開かないわ、この扉」
 扉にはスプリング付きのノブ状のものがあったが押せども引けどもいっこうに開かない。
 この扉は冷気を逃がさないためにバネの力で勝手に閉じるようになっている。しかも一度閉まると自動的にロックが掛かり、中から出るのにも鍵が必要になる。
 その鍵は表の取っ手にぶら下がったままだった。彼女はその冷凍庫の中に閉じこめられしまったのだった。
 「やだ、もしかして私、閉じこめられちゃったの...すいませーん、どなたかここを開けてくださーい」
 事の重大さに気づかず、まだおしとやかに構えていたが、その暗闇の中、自分にしか戻ってこない自分の声が、初めて彼女に恐怖心を芽生えさせた。彼女が放り込まれたのは−10±3℃の世界。このままでは凍えてしまう。それに痛いような肌の感覚が、やっと寒さであると実感されてきた。
 「助けてーっ! 誰かここを開けてー!」
 礼香は扉をドンドンと叩きながら叫んだ。しかし返事はない。
 彼女の背筋が恐怖に凍った。いや、まだ凍ってはいなかったが本当に凍るのは時間の問題だろう。夏服の涼しげな半袖では、防寒の役など少しも立たない。
 「誰かーっ、助けてーっ! 私はここよー!」
 彼女の悲痛な叫びを通すほど、冷凍庫の壁は薄くなかった。自分の吐く息が、扉にぶつかり、戻るまでの間に凍り付き、小さなつぶつぶになって顔に張り付いた。

 クルールームのバイト生達はこぞって窓に駆け寄った。
 1階のカウンターも、これから押し寄せるであろうお客の大群を待ちかまえた。
 この町のシンボルである時計店の鐘が鳴り響き、外の大通りでは今から一大パレードが始まろうとしている。
 鼓笛隊の笛、トランペット、ドラムとシンバル、そしてアコーディオン。
 礼香の叫びは彼らに届いたとしても、もう聞こえない。そしてまた、彼女の心を躍らせるはずだったリズムも彼女には届かない。
 店全体が今、今までにない緊張感に包まれていた。
 このパレードが終われば町にあふれた人々がこの店に行き場所を求めるはず。そうなれば今日の売り上げはかなりのもの。いつもより増員して待機させている。
 そう言った意味でクルー達の熱い注目が注がれていた。


 どれほどの時間が過ぎただろう。
 礼香には、感じる感覚が無くなってきた。時間の経過も、寒ささえも感じなくなってきた。
 それと共に恐怖の感情も薄れてきた。
 いくら大声で叫んでもこの密閉された空間では無意味。逆に、人の気配を感じることが出来るよう、あえておとなしく構えることにしていた。またそうしなければならないほど体力は低下していた。
 さっきまで彼女を震わせていた寒さと暗闇も今ではかえって安らぎにすら感じるようになっている。

 「どうしたのかしら。みんなどうして私に気づかないの? テンオンスのカップもリッドもまだ切れないの。シェイクのシロップだってホットチョコレートだって、ポテトもミートもフィレオフィッシュだって、アップルパイだってここにはあるのよ。誰一人来ないなんて、今日はもう店を閉めちゃったというの?
 もしかして私、このまま死んじゃうの?
 この若さで死ぬなんて、男の子達がきっと惜しがるだろうな。B組の猿田君なんて私にぞっこんだったから...でも、みんな悲しんでくれるだろうか? 冷凍庫で死ぬなんて、笑われないかしら?
 でも同じ死ぬのなら、ここなら綺麗なまま死ねる...そうよ、そう考えればまんざらでもないわ。だって、交通事故なんか顔がぐちゃぐちゃ。飛び降り自殺なんか、もっとぐちゃぐちゃ。
 そういう意味じゃあ、自殺するなら冷凍庫がお勧めかもね。
 それに保健の先生が言ってたっけ。睡眠薬飲んで自殺すると、かつぎ込まれた病院じゃあ薬を薄めるためにバケツと漏斗(じょうご:酒飲みの「上戸」からそう読まれる。本来は「ろうと」)で口から水を注がれ、下半身丸出しでチューブを引かれ、垂れ流しにされるって。駆けつけた親族に面会させないのは、こんな姿は見せられないからだって。
 もしかしたら私、最も贅沢な死に方が出来るのかも知れない...真夏に凍り付く美女、なんて新聞に書かれたりして...ああ、ミステリアス。
 そうよ、私は幸せな方。こんな死に方なら願ってもないわ。礼香はここに息絶えます。たとえ発見が何日遅れたって、私のこの体は、若さを失わずにずっとそのまま...
 でも最初に見つける人は私のことどう思うかしら。苦しんだと思うのかしら? それってイヤだわ。
 そうよ礼香、スマイルよ...」


 彼女が外の光を浴びることが出来たのは、閉じこめられてから3時間後だった。その時、彼女の脈はすでに止まっていた。
 2時間もの長いパレードの間も、そしてそれが終わってからも、店は期待したほど客が入らず、補充を要するほど店は混まなかった。
 そして、生きる気力以上に死後の事ばかりに気を払う彼女には、3時間は十分に長い時間だった。
 梅野マネージャーも印象の薄い新人のことなどすっかり忘れていた。
 彼女は誰にも知られず、誰にも見守られず、ひっそりと死んでいった。


 警察は彼女の死を事故死と断定。経営者側が責任追及の矢面に立った。
 以下はその当事者であり第一発見者でもある梅野マネージャーの事情聴取の一部である。

 「(前略)...本当は自殺じゃないんですか? だって私が頼んだトレーは冷蔵庫の方にあるんですよ。彼女が死んだのは冷凍庫でしょ?
 そりゃあ新人ですから良く知らなかったかも知れません。例えそうでも、あの冷凍庫は万一閉じこめられたときのために内側から簡単に開けることが出来るんです。...え? そのことは警察もご存じ...そうです、内側から取っ手ごと逆回しに回し続ければ、ネジを外すように外れるんです。ミーティングでもちゃんと説明していますよ。
 ウチに限って指導不十分などと言うことは...でも新人でしたし...それでもどうしても私には...刑事さんだって見たでしょあの死に顔。あんな顔見たことありますか?」

 彼女の死に顔は、梅野マネージャーに自殺を思わせるほど、美しくてにこやかだった。

                          「零下の礼香」完

modoru  home  kaisetu