とよたま愛読会23回(真善美愛:54巻 19章〜最終章)  塩津晴彦


日 時:平成10年8月23日(日) 午後1時〜午後4時30分
場 所:八王子市北野市民センター八階会議室2

★ 報告
   参加者七名にて第五四巻第一九章から最後までの通読を無事に終えることが出来ました。

★ 拝読箇所で気のついたこと
○ビクトリア国の改革……その核心とは…… 左守の歌
「そもそも国を治むるは  まづ第一に天地の
 尊き神を寿ぎ奉り  神の教に従ひて
 下国民に相臨み  国の司と現れませる
 模範を示し詳細に  民の心をやはらげて
 世を永久に治むべき  誠の道を悟りけり
 左守の司は今までは  霊の光暗くして
 心を政治に焦ちつつ  現世に心傾けて
 元つ御祖の神様を  次になしたる愚かさよ」 (第五四巻246〜247頁)と歌います。

続いて右守は……
「此世を造りし神直日  心も広き大直日
 ただ何事も人の世は  直日に見直せ聞直せ
 身の過ちは宣直せ   かくも尊き御教を
 授けられたる上からは 孫子の代に至るまで
 畏れ慎み三五の    誠の教を遵奉し」 と歌い終わります。

 つまり ここでビクトル山の頂上に荘厳な社殿を建設し三五の大神を奉り、盤古神王を別殿に奉り、国教の立替えを実行していきます。 誠の神を斎き奉り、それに仕える王家の安泰、そして重臣達の改心が国政改革の核心をなすことを聖師様は示されていると思うのです。

 さらに第二○章 建 替 の中で左守の長子ハルナが神様のお働きでこの世界が造られたこと、しかしいつしか体的な汚れが蓄積しているので、
 直日の霊幸はひて   理非曲直を省みつ
 誠一つの信仰を    励ませ玉へ言霊の
 助けに神の御心を   覚りて心を練り鍛え……と歌います。

このように、国政改革はビクトリア国の場合は、国家の中心となるべき王家とそこに仕える幹部達の神に対する心の持ち方を改める事から始まっています。

 これは、宇宙には主神が厳然とおわしまして、その中心に宇宙の総てのものが結びついて順序とバランスを保って存在しているわけですが、国家においても中心である王と左右守が誤った信仰を続け主神との霊的な絆を失っている限り、結局国の秩序を保つことが出来ないと言うことを聖師様がお示しになっているように思えるのです。国家の権威と国民の安寧はこの宇宙の秩序を信仰の力によって受けとめること以外に保持できないと思います。

○付録 神文 について
 「この神文は鎮魂帰神の神法を実施する際に、サニハが綾の聖地の神前に奏上する祝詞である。大本としては大正一○年からは、鎮魂帰神の顕斎を神界より禁止されたので、それからは、この神文は(大本)本部の大道場において講師が大神様に奏上するだけにとどめられた」 (『霊界物語』資料編)二七三頁

いわゆる大本や聖師様の御神業に関心をお持ちになる人々の中には、この「鎮魂帰神」に関心をお持ちの方が今でも居られます。

 鎮魂帰神の神業は特に皇道大本時代に綾部の大道場や幽斎室でしきりに行われたのですが、鎮魂帰神による霊的発動の多くは邪神や低級霊が偽りの告白をするという内容に終わっています。(『大本霊験秘録』浅野和三郎著)を参照

私たちは幸いにも、鎮魂帰神を経なくても聖師様の『霊界物語』を拝読できるわけで、回り道をせずに主神と繋がれるわけです。   (『霊界物語』第三七巻・三八巻を参照)

確かに鎮魂帰神が刺激的な結果を招くのに比べて、『霊界物語』拝読は刺激的な方法ではありません。しかし普通の人が日常生活の中で素直に神様に近づける方法であるわけですから、祭典等の時の祝詞の奏上と共に大変有難いものであると思います。それとサニハ(審神者)の働きも『霊界物語』の拝読から得られる御神徳の一つです。そのことを考えると私たちは恵まれた時代に生きているわけですね。

○天恩郷開拓の流れ……巻末の漢詩から…… 聖師様は、若い頃から郷里の亀山城址に一種特別の感慨を持たれていました。

聖師様の回顧歌集『故山の夢』には
旧城址銀杏のしたにたたずみて    われ回天の偉業をおもふ
この城址われの住家と口ばしり    空想家よと父にしからる
吾が為に何かゆかりのある如く    なつかしかりし亀山城址よ
田中家の所有となりて旧城址    いよよますます荒らされにけり
ひまあれば亀山城址にしのびゆきて    無言の銀杏といつも語れり  などのお歌があります。

 大正八年一一月一八日、旧城址のうち一万三千五百坪の売買契約締結が締結されましたが、このことには大変なドラマがあります。ちょうどこの時期は綾部の本宮山で本格的な神殿造営の動きが始まっていました。

黄金閣・五六七殿の造営を始め、神殿自体の造営も動き始めていたわけです。そんな中で、聖師様はその日(一一月一八日)青年隊の二名に早馬を仕立てさせて亀岡に走らせ、ご自身は汽車で行かれて早馬と合流して買収交渉に入られました。

というのはこの日京都府が農業学校の候補地として土地収用法を適用する為の最終交渉をした日だったのです。交渉はその日の夕刻聖師様因縁の穴太小幡神社で金三千円でまとまり、大本幹部の東尾吉三郎さんが綾部への献金として用意した資金が使われたと言うことです。  (『大本七十年史』上巻四四七・四四八頁)  天恩郷開拓の意義は聖師様御自身が『神霊界』(大正九年一月一日号)に「梅と松とのお脇立」として亀岡が神教宣布発揚の教壇である、との随筆を書かれています。

 大正九年四月二七日 亀岡開山式 整地開始  同年六月一三日 万寿園の地鎮祭聖師様斎主  同年八月五日から「亀岡大本夏期講習会」がバラック建設の大道場で開かれた。

 大正一四年三月より亀岡天恩郷の本格造営(月の輪台・みろく塔・光照殿等)再開さらにこの時期の亀岡天恩郷の開拓造営について忘れてならない事に、「まだ綾部の神殿もろくに出来ていないのにそんなことは出来ない。聖師に綾部に帰れというてくれ」 (『真偽二道』大国美都雄著「光照殿建設」) と二代すみ子さんの発言に現れているように、綾部の大本教団の幹部が亀岡での御神業の意味を理解できていなかったという事があります。

 大正日々新聞の廃刊に伴う負債問題、聖師様の御入蒙費用問題の解決など、教団としては財政的な余裕がないときに新しく亀岡で施設を造営するなどもってのほかという意味での慎重論は私にも分かるのですが、逆に、聖師様がなぜにそこまでして、宣教の拠点が必要であったのか考えることが必要だと思います。

【ちょっと一服】
○世界の黒沢監督  先日、八十八歳で映画監督の黒沢明さんが亡くなりました。
私事ですが、学生時代には「映画研究会」に所属し、暇さえあれば東京京橋にある国立フイルムセンターへ日参して黒沢作品などを観てきた一人として大変感慨深いものがあります。彼の映画のフアンは沢山いるのではないでしょうか。

そして黒沢監督を追悼する幾つかの番組が放映されましたが、番組に出演した俳優さんが異口同音に語った事があります。それは、完璧主義であると言われていた監督の演出方法が「何度となくリハーサルを繰り返した」事にあったと言うことです。例えば、時代劇の衣装は現代人には大変着こなす事が難しいのですが、実際に衣装を付けて数十回繰り返されたリハーサルの結果、俳優さんは台詞、着こなし、身のこなしが自然と身に付き、まるで薄紙を一枚一枚積み重ねていくように、いつか電話帳ほどの厚さになり自分の役がこなせた、と言うことです。
 『霊界物語』拝読にもこの原理が働いていると感じます。最初は何が書いてあるのかはっきりと分からなかった『霊界物語』も、何度となく拝読を続けていくうちに、その内容が身に付いていく、そんな体験を今私たちは経験しているのだと思います。一ページ一ページの拝読の積み重ねが大きな信仰の力に転換するのではないでしょうか。

第五五巻  巻 末 歌
序 文
○移り行く世のありさまを見るにつけ 腕は言問ひ胸は高鳴る
○人心神の心にかなひなば ひとり開けむ蜂の室屋も
○一人のみ只一人のみ岩の内に 世を嘆きつつ幾夜重ぬる

【序文各行頭語の抜出し文】
明治三十一年如月九日高熊山の修行より今年大正十二年正月十八日まて満二十五星霜を経たり霊界物語の口述開始より十五箇月着手日数は二百日にして五十五編を終る (大正十二年三月五日旧正月十八日)

目 次
○限りなき広野かけりし白竜も 狭き岩屋に潜む今日かな
○白竜の潜む間こそ雨もなく 風さへもなし惟神にて
○一日も早く白竜放つべし 世のため道のためと思はば

総 説 歌
○打つ石の火花の如くすみやかに 移らう御代ぞ最とも憂れたき

第 五 章
○梓弓はるみの空に玉照姫の 月のかんばせ仰ぐ山里

以上


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