シュ……!
しんと静まりかえり緊張感に満ちた道場の静寂を、一瞬だけ矢を射る音が破った。その直後にわずかに的に矢が当たる音がタンと聞こえる。
「かーいちゅーっ!(皆中)」
矢が命中したことを証す凛とした声が響くと、周囲がどよめいた。遠的の十二射目。ここまで見事に皆中。
「ふうっ。もういいかナ?」
矢を射た女性は、気合いを入れるために止めていた息を吐きながらほんの少しだけイントネーションがおかしい口調でそう言うと、自分の射 を見学していたギャラリーに向かって振り向いた。それと同時に拍手が巻き起こった。真っ白な道着に濃紺の袴をまとった180センチに届こうかという長身を ひねり、肩口まであるゆったりとしたウェーブのかかったストロベリー・ブロンドの髪をふわっとなびかせ、その女性は満身の笑顔を浮かべる。
その女性に別の女性が近づいた。場に合わせるために和服に袴の姿だが、明らかに射手では無い。
「お疲れさまです。レミイさん」
その女性はタオルをレミイと呼ばれた女性に差し出した。
「ありがとう、タエコ」
そう言いながらタオルを受け取るが、彼女はさほど汗をかいているわけではない。春4月とは言え、きょうは朝から抜けるような青空で、日 中は5月下旬を思わせるほどの陽気だ。だまっていても日向では汗ばむほどの気温で、ピークはすぎたものの日が陰るにはまだしばらくある。
弓を引くときのレミイは集中しても普通の状態とあまり変わらない。それを天性の素質というのだろう。実際に遠的二手を三本。その十二射 中前半で二射ほど会(かい)が乱れたものの、見事に皆中というのに緊張していた様子はほとんどなかった。
彼女のフルネームは宮内麗美依(レミイ)。この弓道部がある悠凪大学の英語講師で、弓道部の顧問でもある。高校入学と同時に始めた弓道 は、あるきっかけで幼い頃から狩猟で鍛えた天性の動体射撃の素質がうまく生きるようになり、あっという間に超高校級の射手に成長した。特に遠的では右に出 るものが無いほどの名手としてその名を轟かせている。
金髪碧眼で和弓の名手となれば注目されるのは必然で、空手から転向しエクストリームの女王と名を馳せた女生徒が隣接する西園寺女学院に 在学していたこともあり、高校卒業間近の頃はよく二人でスポーツ系の雑誌やアイドル誌に取材され、レミイは「金髪碧眼の大和撫子」として取材された物だっ た。
天真爛漫な性格と抜群のルックスとプロポーション、そして時折ふと見せるどこか大和撫子を思わせる日本人の母親譲りの奥ゆかしさが学生 達の人気の的だ。おまけに、年齢も学生たちに近く、下手をすると就職に炙れた大学院のオーバードクターより若いかもしれない彼女が部の顧問に就任してか ら、弓道部を希望する学生が増えたほどだった。彼女は元々アメリカ生まれだが母親が日本人だったために日本国籍を選び、英語講師として職を得たのを機会に 当て字であるが漢字名を名乗るようになっていた。
彼女にタオルを渡した女性は神岸多重子。レミイの紹介でこの大学に採用され、彼女が担当する英語学科の事務員として働いている。レミイ とは高校の先輩後輩関係の旧知の仲で、この弓道部も手伝っていた。レミイほどメリハリはないが均整のとれたプロポーションで、光の加減で緑にも見えるスト レートの黒髪を頬の下あたりでスパッと切った髪型が日本人形を思わせる。レミイと同様に優しいお姉さん的な存在だ。仕事の関係上あまり事務所から出歩かな いため、学内ではさほど知られてはいないが、こと弓道部では男女問わず慕われていた。
彼女は従姉妹夫婦の家に下宿しているのと、レミイの高校時代の後輩という以外は詳しいプロフィールが不明で、本人もあまり話したがらな いことからミステリアスな印象もあり、別の意味でも人気があった。
「しかし、毎度毎度わたしのデモンストレーションに時間を割いて、自分たちの練習時間を削るのは感心しないと思うヨ」
レミイは緊張というよりは日差しのせいで、額にわずかににじんでいる汗をふき取りながら、部員達に向かってそう言った。
「いえ、とんでもない。先生の射(しゃ)を見学して、気持ちを引き締めているんですよ」と、レミイの真正面にいた英語学科3回生の弓道部 の部長が言い返した。
「先生の会は見事なので、盗むところが多いんです。まぁ、プロポーションまでは真似できませんから、難しいのは事実ですが」
「まぁったく。そんなお世辞言っても、リポートの採点を甘くしたりはしないわヨ」
レミイはくすっと笑うと、そう言った。彼女はレミイの講義を選択しているのだ。
「もとより承知です」
彼女は満身の笑みを浮かべて、そう切り返した。
そんなやりとりを、横で聞いていた多重子が声を押し殺してクスクスと笑った。あきれたという表現をレミイが両手のジェスチュアで見せ る。と、そのとき、横で笑っていた多重子が男子学生に呼ばれた。
「はい?」
多重子は笑いをかみ殺しながら返事をした。
「神岸さん、納品らしいですよ」
守衛か事務所にいた他の職員にでも言われたのだろう、宅配業者の制服を着たメイドロボットが、道場の入り口に立っていた。
メイドロボットはすでに珍しい存在ではなかった。しかも、そこに立っていたのは一番普及している来栖川エレクトロニクス製のHM−12 型「マルチ」シリーズだった。
「ご苦労様、マルチちゃん」
多重子は同上の入り口の土間のところで立ち止まっているマルチ型メイドロボットに近寄り、笑顔でそう言うと荷物を受け取って受領票にサ インをして返した。そして緑色の髪の毛に手を乗せると、まるで子供を可愛がるかのように優しく撫でた。
『マルチ』というのはあくまでHM−12型の開発コードであり、正式な名称でも愛称でもない。だが、この手の製品は開発コードがそのまま 生き残る事は珍しくなく、『マルチ』という名前もその例に漏れず割と一般的に使われていた。
「タエコ、あいかわらずだね」
レミイはそう言って、マルチを撫でる多重子を見て微笑んだ。
「わたしがこうされるのが好きだったので、やってあげたくて」
多重子はにっこりと笑顔を見せた。そして彼女がもう一度「ご苦労様」と言うと、マルチはペコリとお辞儀をしながら「ありがとうございま した」と無機質な返答を返しトテトテと運転手が待つトラックへと戻っていった。
「あの子には心が無いのネ」
レミイが多重子の後ろでポツリと呟いた。多重子が振り向くと、一瞬前まで優しそうな表情を見せていたレミイは、今度は今にも泣き出しそ うな悲しげな表情を彼女に向けていた。
「タエコ、辛くない?」
レミイの言葉尻には悲痛な感情が込められていた。
「もう、慣れました。最初はすごく悲しかったですし、いまでも辛くないと言えば嘘になりますが....。ああなってしまった理由はわかっ ていますし、わたしはあの子達と違って辛いという感情を持つことが出来ますから。辛いと思えること自体がわたしには有る意味喜びですし」
そう言う、多重子の表情にはやはりなにかやるせないものが浮かんでいた。
元々量産タイプのHM−12型も、試作機だった初代マルチの豊かな感情を持つ筈だった。だが、それだけのためだけにHM−13型セリ
オ・タイプのサテライト・システム並にかかるコストは認められず、結局は感情を司る自己学習型思考システムは搭載が見送られた。メッセージバスのフレーム
は残されたのだが、インタフェースだけで、中身となるソフトウェア・コンポーネントが無ければ意味はなかった。もっとも、のちにマ
ルチの感情システムに致命的な欠陥が見つかり、結果的にはその判断は正しかったことになった。
あの、一緒にいるとそれだけで周囲を和ませ
るような豊かな感情を持った少女型メイドロボット、HMX−12型マルチはもうこの世には存在しなかった。
トラックのドアが閉じる音がし、ふと音の方向を見ると助手席の窓からマルチがじっと多重子を見つめていた。そして、多重子が自分を見て いることを認識したのか、ペコリとお辞儀をした。
−そうか、あの娘、表現は出来ないけど、わかるんだ....。
多重子はマルチに向かって手を振ると、トラックが見えなくなるまで、じっと見つめていた。
その表情は先ほどのやるせない物から、幾分なごんだ物に変わっていた。
日が暮れ、レミイの自宅前で彼女と別れた多重子は自分の家への帰路に就いた。いつもはバスで帰宅するのだが、きょうはレミイに付き合っ て商店街をウロウロしていたため、いつもより遠回りしていた。
−まずいなぁ、ギリギリかも....。
別れ際にレミイが「大丈夫、持ちそう?」と心配していた。
多重子は心配する彼女に「ちょっと予定より運動量が多いんですが、大丈夫、携行用もありますから」と返答していた。
自宅の前まで戻ってきた多重子は、ほっと一息吐いて安心した表情を見せた。門柱の表札には「藤田」とあり、その下に「神岸多重子」と小 さな表札が添えられている。彼女は大学まで徒歩で通える、従姉妹が嫁いだこの家に下宿しているのだ。
−なんとか、部屋まではこのままで持ちそう。
彼女は半年ほど前に一度途中で歩けなくなって、この下宿先の家主である従姉妹の夫に迎えに来てもらったことがあった。そうそう毎度迷惑 をかけるわけにはいかないし、ましてや今日は身重の従姉妹しかこの家には居ないはずだった。
多重子は「ただいまぁ」と元気な声を出して、玄関の鍵を開けた。
ドアを開けて玄関ホールに入り、靴を脱ぎかけたところで、この家に嫁いでいる従姉妹がひょいと顔をだして「遅かったね」と、言った。
「うん。レミイさんに引きずり回されちゃって」
「え? 彼女、貴女の事情は知ってるはずなのに」
「調子にのって引きずり回したのに気づいたのか、帰り際にあやまってくれたけど」
多重子は苦笑しながらそう答えた。
「でもまぁ、この前みたいにならなくて良かったわ」
苦笑する多重子に笑顔でそう言ったのは多重子の一つ年上の従姉妹の藤田あかり。旧姓は神岸。大学時代から幼なじみで夫である藤田浩之の もとに通い妻をしていたのだが、妊娠を機会に正式に入籍し、藤田家の新妻として生活するようになっていた。元々両方の親同志も公認の仲で、大学卒業後は半 同棲生活に入っていたこともあり、さほど生活が変わったわけではない。だが、そのころはまだ多重子が居なかった。
「と、いうわけなので、夕食の支度はゴメンなさい」
多重子はそういうと、手を合わせて謝るポーズを見せた。
「なに言ってるの。わたしが家にいるときは自分でやるって、前から言ってるでしょう?」
「それはそうだけど。でも、それじゃぁ、わたしがここに置いてもらっている理由が…」
多重子はしどろもどろになりながら、そう返答した。
「四の五の言わないでさっさと部屋に戻る!」
あかりは尻をたたくような動作をして、多重子を2階の彼女の部屋へと追いやった。多重子の部屋にはあかりが嫁いでくるまで浩之が使って いたものがあてがわれていた。実のところ、あかりの実家はこの家の隣の番地で今の家の前の通りを次の角で曲がったところにあるのだが、多重子はあかりの実 家ではなくこの家に同居していた。傍目には不思議な家族構成だがそれにはちょっとした理由があった。
自室にもどった多重子は薄暗い部屋に明かりをつけると、ちょっと大きめのドレッサーに腰を降ろした。普通の女性なら外出で汚れた髪を手 入れするためにブラシで解かしたりするものなのだが、彼女の行動は変わっていた。
彼女はブラシを取る代わりにドレッサーの鏡の右側のリムにあるスイッチを入れた。すると、鏡の反射率が落ち、かわりになにやら女性の全 身を表す分析図のようなものを映すディスプレイに変わった。その中には別の子画面が二つほどあり、そのうちの一つは何かの研究施設のライブ映像のようだっ た。そして2、3秒ほどして空白だった分析図の右上の2次画面がぱっと開き、測定データらしいものがパラパラと表示され始めた。
“Model No:HMX−12R/22α…Multi Reviced”