釣りと秋田と俺

俺は、釣りが好きである。
 小さな頃、親父に連れて行ってもらった埼玉の釣堀が最初の釣りだと思う。そこで俺は大きな一尺もある鯉を釣った覚えがある。
今、俺は27歳。あの頃は幼稚園だったので今から約20年以上前の話になる。
その後、釣りをした覚えがあるのは、秋田に行ってからである。
俺と妹、両親と4人でいったのである。俺がちょうど小学校2.3年の頃だから、7〜8歳のころである。
 秋田は、まず、東京と何が違うかというと“言葉”が違った。何をいっているか分からないのである。東京では、“やめてほしい”ということをよせよというが秋田では決してそうはいわない。
転校生というのは、やはりめずらしいものである。やはり俺はいろんなやつらにからかわれたりちょっかいを出されたりした。とてもいやな思い出である。何かやられると俺は、よせよと言った。いつの間にか俺は、よせよ君というあだ名になっていた。
 そのよせよ君の秋田での大好きなことは、釣りであった。祖父、祖母との6人の暮らしはとても楽しかった。家の周りは、田んぼと山、用水路があり少し歩くと、米代川(よねしろがわ)があった。よく行った用水路は、鮒、ハヤがよく釣れた。
釣竿は、家にあった。父親が用意してくれた釣糸と針を用意し、よくその用水路にいったものである。餌はというと、2種類使った。ひとつは、みみずである。家の周りを掘るとすぐにみつかった。もうひとつは、練餌である。これは単純に、小麦粉を練ったものである。これが凝ってくるとこの小麦粉に、なぜか酒をちょっと加えたり、ゆで卵の黄身を加えたりと、ただの小麦粉ではあきたらず、いろいろな工夫をしたものである。これがいいかどうかはまた別の問題で、たいして変わらなかった覚えもある。ただ、ひとついえるのはとても楽しかったことである。
 秋田県大館市青葉町。ちょうどNHKの放送局の坂下にあるこのいえは、俺にいわせればとてもいい環境にあったと思う。ただ、学校がとても遠く普通ならばバス通学をする距離なのであるが何故か歩きだったのである。確か、7時ごろ家をでかけたと覚えがある。約1時間位の道のりを晴れの日も、雨の日も、雪の日も、吹雪の日も歩いたのである。帰り道は、少々コースを変えて、ブタ小屋の前を歩いて帰ったものである。これだけ道のりがあると帰り道は大切な、遊び時間であった。友達の家に立ち寄ったり、図書館に寄ったり。その図書館の名前は、栗森図書館といい、今でもあるのか分からない。きっとあると思うが今度、秋田に行った時には立ち寄りたいと思う。その図書館のとなりには大きなとちの木があった。そしてその実が落ちていた。ちょうどどんぐりを大きくした様な実は、その中味をくり抜くと笛ができた。その笛をよく吹いていた。
わずか、2年間であるがその通学時間というのは、今でもこの程度はよく覚えている。
 大館から車で約30分程度のところに母の妹の家がある。すごい田舎である。畑と山、田んぼ、そしてお墓があった。そこの家にはよく行ったものであるが、親戚の家に行っても楽しみというのは従姉妹と遊ぶか、釣りにいくことであった。従姉妹の長女、麻美とりょう君とはよく遊んだものだ。なにをして遊んだかというとはっきり覚えていない。子供ならではのままごと遊び何かをしていたんだと思う。
 その麻美の家からすぐのところに川がありそしてつり橋がある。ちょっと上には発電所もある。
つり橋から水の中を覗くと大きな魚が本当に沢山泳いでいた。幼心にとても心臓をときめかせたことを今でも絶対に忘れることができない。水の色というのは絵に描いたりするときには決まって水色であるがその川は、緑色をしていた。深いところは緑色をしており、浅瀬はそのまま飲んでしまいたい程に澄んだ透明な水。その緑色をした水は本当に澄んでおり、何メートルかの底もよく見えた。大きな黒い陰がすごい勢いで、川上に向かい泳いでいった。小さな俺は、そこから魚を見ることはできても、釣りはできなかった。つり橋の上からはとても釣りはできないし、釣りができる所まで降りていくこともできなかったからである。本当に興奮し、そして今でもそのことを覚えている。
 つり橋のある川が、母親の妹の家の近くであるのに対し、父親の本家の家の近くにも思いで深い川がある。川にもいろいろあるが、小さな流れ、大きな流れ、水が湧き出ている源流と秋田にはいろいろな川があった。父の本家の近くの川は、沢だ。山深くから水が湧き出てやがて小さな流れとなって、川となる。その沢では鰍(カジカ)を釣った。沢の流れは小さく、どんな所でも歩いて渡れる。釣竿も特にいらない。鰍というのは面白い魚で、みみずをつけて、かかるのを待っていると餌であるみみずを食わずに、おもりである鉛の直径1.5mm程度の玉にも食いつくのである。もちろんそれはただの玉なので、食いついてもかからない。水が澄んで、針に食いつく鰍を見ながら釣った。親父とはしゃぎながら釣った。あのときも化なり山奥まで入り込み、一日中釣った思い出がある。ここまで一緒に釣りに連れていってくれる親父もいないのではないのでないか。
鰍を大館まで持ち帰った。鰍という魚は生命力がとても強く、約1時間窮屈な、買い物の白い袋にいれておいても死んだ鰍はいなかった。大館の家の庭のビニールのプールにしばらくはなしておいた夏の日のいい思い出である。
 大館から鰍の沢まで約1時間弱。つり橋の沢まで約30分。近くの用水路まで徒歩10分。米代川まで徒歩20分。車で1時間強かけると、日本を代表する湖、十和田湖がある。
 十和田湖は、青森と、秋田の県境にあり、俺にいわせれば日本一の湖だと思う。五千円札の裏にある湖は富士五湖のひとつ本栖湖であるがあの湖もきれいである。きれいだからお札に載るのだと思うがやはりあれは、富士山があって湖があるのである。十和田は、違う。すべてが美しい。
十和田湖の特徴は、きれいな木々と湖の形にある。そして空が水がすばらしい。数年十和田を見ていないので変わってしまっていないかとても心配である。
 その形状は、ちょうどてのひらを広げ、小指と親指を畳んだ様な形である。丸い形に岬が二つ。
よくありそうでないのがこの十和田である。十和田にはいくつかの川が流れているがその代表的な渓谷に奥入瀬渓谷がある。本当にきれいである。途中には大きな滝があったりと、それは一言では言い表せないところである。ひとつ残念なことは、観光地化されていることである。
十和田湖では実は釣りはできない。水がきれいすぎることと、水の成分が魚がいきるための成分と少々ことなるようである。残念ながら釣りは十和田湖の帰りの釣堀でしかやったことはない。
 その釣堀は虹鱒と岩魚が釣れる。釣った分だけ、買って帰るというきわめて親父にとってはいやな予感を感じさせる釣堀なのである。釣堀の魚はさすがによく釣れる。俺は十数匹釣った。1匹300円とするとウン千円になる。
 岩魚や虹鱒という魚は、雑食の魚で口に入るものならばほとんど何でも食ってしまう。以前に釣った岩魚の腹のなかにはカナブンが入っていた。あの固いコブとをかぶったカナブンである。ちなみにその魚は15cm程度の岩魚である。
 その釣堀では、竹でこしらえた延べ竿と仕掛けを貸してくれ、餌には練り餌をくれた。練り餌では、この俺は納得がいかなかった。先ほどの通り、この魚たちは、本来こんな小麦粉を練った様な餌は食べていないのである。普段餌付けされたこんな餌では釣れてあたりまえなのである。とにかく誰もが使っている餌では、つまらないのである。
秋田というのは、何故かとんぼがよく飛んでいた。大館の家の前でもよくとんぼがとんでいたので人差し指をとんぼに向け時計周りに指を回転させるととんぼは首を振る。その瞬間によくつかまえたものであった。その釣堀でも幼い頃の俺にだまされたとんぼは、想像通りの岩魚の餌食になったのであった。このとんぼをどうやって餌として使うというととんぼが死なない様に針に刺す。弱らないようにしてそのまま空を飛ばすである。ちょっと残酷に思えるかもしれないが、こんなことを味わえたのも父親がいろいろな遊びを教えてくれたからにほかならない。
 水面を飛んだとんぼは、糸がついている分ちょっと重たそうな飛び方をする。それでも一生懸命飛ぶ。水中から見た魚は子のとんぼを見て何と思うのかというと言い方こそ悪いもののきっとイイカモが来たと思うに違わないだろう。疲れ果てたとんぼは魚にとって一番捕食しやすい状態なのである。とんぼを手から離しうまくコントロールすると水面ぎりぎりに飛ぶ。すると思った通り、魚は、水面を飛び越し、とんぼに食いつこうとするのである。岩魚の生態を知らない人が多いためか、多くの人がそれを見て、驚いていた。また、その次の瞬間には、多くの人がとんぼをつかまえていた。そしてそのとんぼに食らいつく鱒達を見てみんな興奮していたのを覚えている。
秋田は俺にとって本当に楽しい所であった。
そして、たまには、秋田に行く。

1997年 誠光


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