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小学校5年の時、金管バンド部に入部しトランペットを始める。マーチングもやった!この当時使用楽器:はまや(YAMAHA)製の一番安いニッケルメッキのカレッジモデル。
中学校では吹奏楽部に入部。専らトップ吹きでありパートリーダーでもあった!この当時使用楽器:おやじに中古屋で3万で買ってもらった、あやしい西ドイツ製のラッパ。中学3年の時、音楽高校進学を決意、吹奏楽部の顧問であった今泉先生(通称:イマコ)の指導を受け、明和高校の音楽科にめでたく合格。このころよりBACHのB管を使用し始め、現在に至る。
高校では、当時名古屋フィルハーモニーの竹本義明氏(現名古屋芸術大学)に師事。高校3年の時、東京芸術大学のトランペット科を受験するも一次試験で敗退。この後、3年間トランペットのケース開くことすらなかったほど嫌悪感を抱く。
芸大声楽科3年の時、副科のトランペットを履修し、杉木峯夫氏に師事する。4年の時、中学校OBバンドが結成されトランペット奏者と指揮者を務めるが、数年後に退団。一方、アマチュア吹奏楽団の新交響吹奏楽団に入団し、トランペット奏者を務める。このころよりBESSONのコルネットを使用。同楽団では金管アンサンブル「新響アンサンブル・エキスパート(略称:SEX)」を組織し、定期的に演奏活動を行った。また某都内中学校吹奏楽部の外部指導員として吹奏楽の指導も行った。
現在は新交響吹奏楽団を退団しているが、お声がかかった時はエキストラとして舞台に上がることもある。
4・5年前までは、ごく稀にしか聞かれることの無かったこの曲が、あちこちの演奏会で取り上げられるようになったのは、ここ2・3年ほどの間である。初めてこの曲の名を耳にされる方もいるだろうが、この題名を見て何を連想されるだろうか?ヴァーグナーの「ニーベルングの指輪」を思い起こす人もいるかもしれない。確かに指輪が物語のモティーフになることなど、ストーリーに似通ったものがあることは否めない。しかし、ヴァーグナーが自分でテクストを書いたのに対し、この「指輪物語」は、J.R.R.トールキンの同名の長編小説をもとに作曲された、言わば標題音楽である。標題音楽とは、文字どおり標題をもとにその題材を描写していく音楽領域で、リストやR.シュトラウスに代表される交響詩と言うジャンルが主に挙げられる。ここで二つ疑問が浮上してくる。一つには、この曲の作曲者ヨハン・デ=メイが、なぜ、この題材を交響曲という絶対音楽(標題によらない純粋な音楽表現)、つまり標題音楽と対等の位置にある形態で作曲したのかということ。さらに、標題音楽という多彩な表現力を必要とするジャンルを、なぜ吹奏楽と言う音楽表現上たいへん制約のある媒体を用いて、作曲したのであろうかということである。このことは、彼の経歴を紐といて行くことで答えが得られることになる。
ヨハン・デ=メイは1953年にオランダに生まれた。ハーグ王立音楽院でトロンボーンと作曲、そして吹奏楽の指揮を学ぶ。卒業後編曲などを手懸けるかたわら、「アムステルダム・トロンボーン・カルテット」や「アムステルダム・ウインド・オーケストラ」のトロンボーン/ユーフォニューム奏者として活躍する。1989年、初の吹奏楽作品である「指輪物語」でシカゴにおいて行われた「サドラー吹奏楽作曲賞」を獲得し、作曲家としての地位を確立する。その後も「水族館」「ネス湖」などの吹奏楽オリジナル作品の他、クラシックやミュージカルのアレンジ作品など次々と発表している。今年の3月に初来日している。
彼の経歴を見れば、彼がいかに吹奏楽に精通しているかが明確になる。メイにとって吹奏楽以外の表現媒体は、思慮にも及ばなかったであろう。彼の、吹奏楽におけるオーケストレーションの素晴しさは、この曲を一聴すれば誰もが納得するに違いない。特にトロンボーン奏者としての影響は、3楽章のトロンボーンのソロに如実に現われている。ポルタメント(音間を滑らかに演奏する奏法)を多用し、テクニックの限界いっぱいに書かれているこのソロは、トロンボーン奏者であるメイでしか書けないフレーズと言えるのではないだろうか。他のブラスセクションにおいても、ミュート(弱音器)やフラッタータンギング(舌を転がして奏するタンギング)など様々な技巧を利用して表現に幅をもたせている。一方、木管セクションのオーケストレーションに関しても、友人でクラリネット奏者であるニック・ウィジンズ氏に助言を仰いでいる。このような背景から彼は、管弦楽にひけをとらない表現能力を、吹奏楽によって引き出したという訳である。
もう一つの疑問−この曲の「交響曲」という位置付け−についてだが、今日においては交響曲についての明確な定義は存在しなくなってきており、ベルリオーズの「幻想交響曲」に例を採るように標題音楽が交響曲というジャンルによって書かれることは、もはや特別のことではなくなっている。また、メイにとってこの曲は、連作交響詩というよりは、もっとグローバルな統一性を持った、交響曲というイメージとして捉えるべき曲だったに違いない。
ヨハン・デ=メイ氏は新進の作曲家であり、この交響曲第1番が、文字どおり出世作であったが、さらに交響曲第2番が近年発表され日本でも演奏されるようになったが、これからの活動がたいへん期待される作曲家の一人であることは、間違いなさそうである。