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茶パツの意味


 神様じゃない限り、人間の大部分の行動のモトになっているものは「もっと 私の方を見て、もっと私を認めて」である。口に出して言わないだけである。

 赤ちゃんが生まれて1歳から3歳ぐらいまで、特に1歳になるまでの間に、 お母さんの、他の誰にも向けないような「愛情光線」とも言うべく「愛情いっ ぱいの視線」を充分に向けてもらった赤ちゃんは情緒も安定し、基本的には人 生を前向きに考える事が出来、苦しい事があっても乗り越えられる力を持つと される。

 でもその「愛情光線」の量が足らなかった人はどうなるか、と言えば答えは、 “大きくなってもやっぱり「愛情光線」を求め続ける事になる”が、ただし “もっと私の方を見て”“もっと私を認めて”とストレートに言うのは自尊心 が傷つくから言えない。そこで違う形で“目立って人の視線”を集めようとす る。

 それが茶パツだったり、モヒカン刈りだったりする。人々の視線は冷たいけ れども集る。これで無意識の目的(愛情を得る)という事が達成される。人の 注目を浴びたい、人々をアっと言わせたいという程度の願望もモトは全く同じ 事である。

 だからと言ってそれでは茶パツの若者を無視すれば、問題が解決するのかと 言えばとんでもない。彼らは「例えそれが冷たい視線であったとしても」自分 の方を見て欲しいと切ない気持を持っているのだから、やっぱり注目をするの が“正しい対処の仕方”といえる。

 子どもを“放任主義”でそだてるのより、体罰という“関わり”がある方が まだマシだと言われるゆえんでもある。

 大体の人間はそんなに愛情いっぱいで育つという事はありえない。誰でも大 なり小なり問題を持っているものだから程度ではある。

 自分の子どもが茶パツになって家に帰って来たら何はともあれ驚いて、その 事が受け入れられない事であればそれはやっぱり勇気を出して対決するべきで ある。ある意味で子どもは親との対決を迫って茶パツになっているのだ。

 決して無視をしてはいけない。

 かく言う私は茶パツの若者よりもっと遅れて、今ごろになってようやく反抗 の赤パツや黄パツにして生活を楽しんでいるが。わたしの「愛情不足」は若者 達よりずっと大きかったという事ではある。

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