[日々の大脳生理学目次][ホームページ]

昔話の残酷性について


 シンデレラをいじめた意地悪な継母は、シンデレラが贈った靴を履いてシンデレラの結婚式に招かれ、嬉しくてその靴を履いて出席する。そして、音楽に合わせて踊り出すと、そのまま死ぬまで踊り続ける靴だった、その上継母というのは嘘で、実の母親だった。というのが元々の原話だとされる。

 白雪姫の継母も原話では実の母となっている。それが“それはひどい”ということで何百年かの間に母は継母になっていった。でも考えて見ると、世の中には自分の子どもが憎くてたまらなくなり、殺す親も現にいる。

 実際私だって、娘が全然言う事を聞かなくなって大学を辞めてしまった時は娘を殺して自分も死んだほうがましだ、と思っていた事もあった。今では仕方ない事だったんだと思えるが、その時は真剣にそう思っていた。

 そんな時は昔話の継母そのもので、可愛さ余って憎さ百倍。娘に対しての腹立たしさからいつも娘を怒ってばかりいた。顔を見るのも嫌だった。娘の私に対する反抗もすごかった。

 そう言えば、白雪姫に嫉妬する継母という構図は、それまでは子ども子どもしていて、どんな器量をしているのかなんて思っても見なかった子が、番茶も出花の18歳、色白で背もスラリとしていて、、ということになると、娘と対決していた事そのものが、自分の意のままにならない娘を無理に自分の枠にはめようとしていたのだから、嫉妬する継母の構図そのものと言える。

 なにが言いたいかというと、人間というものはとても残酷なもので、誰でもその残酷な部分を深いところには持っているということ。
 だから、チルチルミチルの親が本当は両親とも実の親で、且つ子どもを捨てたとか、意地悪な継母は全部本当の母なのだと知るとなんだか私などはホッとするし、シンデレラの、自分をいじめた実母への復習のすさまじさはすごいものだなあと感心もし、身近に感じもする。

 経験から言っても、私だけが鬼のような人間ではなくて、だれでも一時期の私と同じ様な「鬼」になるものなんだということが分かると、今更ながらになんだか救われる気がして楽になる。

 昔話の残酷さで救われた部分もある。

 翻って、小さい頃に思いっきり残酷なこんな昔話を聞いていると、心の深いところにあるその残酷性と結びつき、落ち着くと思う。同じように、男の子が3、4歳の頃に怪獣ごっこに夢中になるのは、そういう意味で深いところの慰めになっていると言えるのではないか。

 怪獣の次に深いところに共鳴する、残酷なむかし話しを聞くことによって、幼児の心の中に無意識の中に筋道が少しずつ出来ていき、人間としてのあるべき姿というか、モラルというか、そういうものの芽になっていくのではないかと考える。

 もちろん、それはテレビ等でなく「むかしむかしあるところに、、、」というかたり聞かせで始まる「むかしばなし」に限るが。

[日々の大脳生理学目次][ホームページ]
shizuka@hi-ho.ne.jp