“制度”の中の障害者たち ・・ 36


福本 千夏

2017/12/11

 

 私は脳性麻痺者である。そして、老化による…と言われれば返す言葉もない年になった。10年前に夫を見送り、今年に入り子供も独立、花の55歳ゴーゴーと行きたいが、体はヘロヘロくたくただ。仕事帰りに映画館に行くというささやかな願いさえ、叶えられそうにない。休みの日も通院がらみでしか出かけなくなってきた。

 子供だった頃は「花びらを追い越して走る」なあんてことを夢見ていた。

 乙女だったころは「好きです」と一言の思いを伝えるために夜行列車に乗る。なんてこともした。

 あれから、幾年たったろう。そして、このかん、私は何を得、失い、何を学んだだろう。

 5年前からNPO法人被災障害者支援団体・ゆめ風基金で働く経験も頂いている。ここで、数字と文字に追われる事は少しだけできるようになった。誰かに何かを託され、決められた時間までにする。懸命にやって、間違えた時は素直に謝る。そんな労働の基本を学ばせてもらった。思えば、よく生きたものである。

 そして、時間はあっという間に過ぎ去る。かけがえのないものを得て、かけがえのないものを手放しながら、これからも生きていくのだろう。

 が、障害者が生きるのには、自分の強い意志に加えて、制度というご縁が必要不可欠だ。でも、この歴史が浅い、障害者の制度は介護保険に準じている。手を加えるたびに……?だ。意思を助けるための制度では決してない。お天気や体調によって、生活を変えざるを得ない障害者。へルパー制度が使いづらいと感じることが多くなってきているのではないか。まずはヘルプの計画を立てる。そして計画通り、ヘルプを受けてくださいと言われるのは……なんだか、本末転倒だ。

 計画とは違う毎日がやってくるのは当たり前だ。大雨が降れば、外出はしないし、計画になくても体調が良くなければ病院に行く。それは、障害者も健常者も関係ない。こんなことにさえ対応できなければ、介護制度とはいえない。介護という名の虐待だというのは、言い過ぎだろうか。

 が、障害者を制度の中に閉じ込めるな! そう叫んで、ええーいと、他国で新しい生活をする根性も体力もない。どうか、障害者が意思を持って生き抜くための制度となってほしいと、私は言い続けるしかない。

 気づけば、ほとんどの時間を、腹ではなく肩で息をしている私。もともと体幹がぐらぐらする脳性麻痺者が、今になって気づいたことかもしれないが……。「どんな病気でも悪くなれば肩で息をする。とうとう、お迎えが……」と悪友から言われ、エンドレスノートでも書こうかとさえ思う。あっ間違えた。エンディングノートだ。あっはは。と笑うと、長い年月をかけて変形した背中が痛い。真夜中、なんとも言えない寂しさと不安感も身体に加わり、泣きたくなる。

 「泣くな、俺はいつでもここにいる」と、亡き夫からの声も、もう聞こえない。

 あーあ。ひとりだ。が、「制度の中の障害者たち」で、今の自分と向き合い生きてきた。自分をみんな受け入れて。それを過去という言葉に変換し続けた。この作業があるから、私は七転八倒しながら生きてこられた。

 今までこのページを私に託してくれて、ほんとうに感謝である。

 つたない私の文章とのお付き合い、ありがとうございました。

 これからも、私が私として生きること、書くように書いたままに生きること、他人を思い、自分に責任をもって生きることを止めない。

 この文章が私の心に沸き立ったころ、河野秀忠氏の訃報が入る。

 「さようなら」が俺を迎えに来たんや。
 人生は一粒の雨のごとく 一粒の砂のごとくあっという間。
 もしも、あんたが道を見つけたんなら、まっすぐ進め。
 書いて生きていくのは、嬉しさより怖さ百倍。
 でも、あんたが行く道は、きっと人間の道。

 星が言った気がした。

(ふくもとちなつ/『そよ風のように街に出よう』に「いのちと出会う」「ちなつの、まっこんなもん」を連載)

 

 

 

前回を見てみる

 



 ホームページへ