ことば漂流記30

共感の終わる所、始まる所

小林 敏昭

2012/04/23

 

 その絵本の存在を最初に教えてくれたのは『大田・特殊教育を考える会通信』だったと思う。「一緒がいいならなぜ分けた」と、「特殊教育」ということばにこだわりながらその差別性を訴え続けてきた東京の北村小夜さんが発行する通信である。確かそこに別の雑誌に掲載された記事が載っていて、その記事で『みえないばくだん』という絵本が紹介されていた(「と思う」とか「確か」とあやふやなのは、その記事のコピーをとったはずなのに、それが見当たらないのだ。そう言えば最近、しょっちゅう何か探し物をしている気がする)。

 その絵本は福島第一原発の事故と放射能汚染の問題をテーマにしたもので、日本の女性が書いてインターネットの動画サイト「You Tube」に投稿され、話題になっているという。早速アクセスして検索してみたら、日本語版だけでなく英語版やドイツ語版もアップされていた。確かに大きな反響を呼んでいるようだ。動画サイトではあるが、この「おおしばよしこ」さん作の『みえないばくだん』は計12枚の静止画を背景にして文字が下から上に流れていくという素朴な作りで、バックのピアノソロが作品を単調さから救っている。

 物語は「むかし せんそうがありました。 そらに ひこうきがたくさんとんできて ばくだんをおとしたり おとされたりしました」と始まる。燃え上がる街を背に子どもたちが集団疎開するシーンが描かれる。

それから なんじゅうねんかして えらいひとたちが べんりになるものをつくりました。とかいにはばしょがないから とちのあるいなかにつくりました。とかいのひとたちは 「せいかつもべんりだし ものがたくさんつくれるな」 とよろこびました。いなかのひとたちは 「しごとがふえて おかねももらえて くらしもらくになるな」 とおもいました。

 余談だが「えらいひとたち」は英語版では「Self Important」となっていた。直訳すれば「自称、重要人物」とでもなろうか。ぴったりとは言えないが、なかなか味わい深い訳だ。さて、物語の続きに戻る。中には原発の危険性を指摘する人もいたが、その「えらいひとたち」は「ふつうにつかっていればばくだんにはならないよ」と聞く耳を持たず原発を作り続ける。そしてこの国の多くの人たちも「えらいひとたち」を信じた。しかしついに「10ねんも20ねんもかけてみんなをくるしめるばくだん」が爆発する。病院の屋上の絵。マスクをして咳き込む女性、点滴台を持ってうつむきながら歩く男性、車いすに乗った子どもたち。

 そして事故から20年後、「たいへんなびょうきのあかちゃんがたくさんうまれ」る。その中に「ちょっとだけ、おててのかたちがかわっているあかちゃん」もいた。

そのあかちゃんの おうちのおにわには ながさが2メートルもあるたんぽぽや みぎはんぶんとひだりはんぶんで いろのちがうかわったおはなが たくさんさいていました。 そのこが しょうがくせいになったとき おじいちゃんと おばあちゃんにききました。「きょうね がいこくのおともだちに『あなたのおててのかたちが わたしとちがうのは あなたのくにが みえないばくだんをまいたからなんだよ』っていわれたの。どうして? どうしてわたしは みんなとおててのかたちがちがうの?

 女の子の両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。そして「おじいちゃんと おばあちゃんは」という文字が画面の下から上にゆっくりと移動し、やがて見えなくなると少女の顔も消えて「このおはなしをよんでいるあなたかもしれません」という文字が画面の中央に浮かび上がって物語は終わる。

 観終わってすぐに『さっちゃんのまほうのて』という絵本を思い出した。先天性四肢障害児父母の会の野辺明子さんと志沢小夜子さんが文を書き、田畑精一さんが絵を描いて、一九八五年に偕成社から出版された。野辺さんは娘が、志沢さんは自身が先天性の四肢障害である。

 生まれつき右手の指がない「さっちゃん」は、母親のお腹で赤ちゃんが大きくなってきたこともあって、幼稚園のままごと遊びでお母さん役をやりたいと思う。いつもその役は「せのたかいみよちゃん」か「まりちゃん」に決まっていたが、「あたし、おかあさんになる!」と宣言してままごと箱からエプロンを取り出す。そしてまりちゃんと言い争いになる。「さっちゃんは おかあさんには なれないよ! だって、てのないおかあさんなんて へんだもん」。周りの友だちもみんな、まりちゃんに加勢する。さっちゃんは「あたしだって おかあさんに なれるよ!」と叫んでまりちゃんに飛びかかる。先生に制止された彼女は、まりちゃんにエプロンを投げつけると「かばんも ぼうしも おいたまま、くつも はきかえないで」外に飛び出す。

 息を切らして家にたどり着いた彼女は、ギラギラした目で母親に詰問する。

さちこのてはどうしてみんなとちがうの? どうしてみんなみたいにゆびがないの? どうしてなの?

 胸がいっぱいになった母親は彼女を抱き締めながら、お腹の中で「にんげんのからだになっていく」時に、原因は解らないが「ゆびだけ どうしても できなかった」のだと説明する。「しょうがくせいに なったら、さっちゃんのゆび、みんなみたいに はえてくる?」。母親は両手で彼女の手をやさしく包みながら言う。「さちこのてはね、しょうがくせいに なってもいまのままよ。ずっと、いまのままよ。でもね、さっちゃん。これが さちこの かわいい かわいいて なんだから…」。「いやだ、いやだ、こんなて いやだ」。幼いさっちゃんに事態を理解することは難しい。明くる日から登園拒否が始まる。

 しばらくしたある日、彼女は父親と二人で出産した母親を病院に訪ねる。その帰り道。「おとうさん。さっちゃん、ゆびが なくても おかあさんに なれるかな」。父親は彼女の手を大きく振って言う。

なれるとも、さちこは すてきなおかあさんに なれるぞ。だれにもまけないおかあさんに なれるぞ。こうして さちこと てを つないで あるいていると、とっても ふしぎな ちからが さちこのてから やってきて、おとうさんのからだいっぱいに なるんだ。さちこのては まるで まほうのてだね。

 次の日、あの時まりちゃんに加勢した男の子から小さなプレゼントが届く。紙包みの中にハートの形をしたチョコレートが一つ。それから幼稚園の先生も家にやってきた。さっちゃんは「あしたは ようちえんに いくんだ」と決心して眠りに落ちる。最後のシーンはきっと夢の中のできごとだろう。友だちとジャングルジムで遊ぶ彼女。「さっちゃん、すべるなよ!」「さっちゃん、おっこちないで!」「へいき! だって、さっちゃんのては まほうのてだもん!」

 『みえないばくだん』と『さっちゃんのまほうのて』に登場する女の子の、まるでそっくりな二つの問い。しかし『みえない—』の女の子の目には涙があり『さっちゃん—』の目はギラギラと光っている。それだけではない。前者の問いは物語(共感)の終わりにあり、後者の問いはいわば物語(共感)の始まりにある。人間について考える時、二つの物語の間に横たわる川は深くて暗い。
 原発をなくそうという主張は、誰も傷つけない、誰にも傷つけられないという、生命の根源に根ざした想いの表明であるはずだ。その表明が、他者を傷つけるようなことがあってはならない。

(こばやしとしあき/『そよ風のように街に出よう』副編集長)

 

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