ことば漂流記・39

“心失者”とは誰か?

小林 敏昭

2017/12/11

 

 『そよ風のように街に出よう』編集長の河野秀忠が9月8日の午後、闘病中の病院でついに「伝説の門をくぐった」(彼は友人が先立つと追悼文でいつもこの表現を使っていた)。最期は日に日に痩せ衰えていって、棺の中の河野の冷たい脛は骨に皮をかぶせただけのようだった。自宅で転倒して1年と2か月、酸素マスクをつけ中心静脈栄養の点滴を受け導尿の管につながれてはいたが、生きようとする意志を捨てず全精力を使い切った末の死だった。生きたいように生き切って、りぼん社の彼の机の上にはワープロ専用機(最期までパソコンは使わ(え)なかった)やフロッピーディスクや酸化して変色した書類や自分でこつこつと切り貼りしたミニコミの版下(糊が乾燥して貼った紙がヒラヒラと舞っている)が雑然と山のように積まれたまま残った。いかにも彼らしく、跡を濁しに濁したまま旅立った。

 牧口一二が「そよかぜ」今号の巻頭エッセイで河野に語りかけるような文章を寄せてくれているので、彼との思い出を語るのは来年4月19日の偲ぶ会まで取っておくとしよう。本体の『そよ風のように…』が今夏で終刊したため、この「そよかぜ」通信も今の形では今号が最後になる。「今の形では」と言うのは、今後も何らかの形で情報発信を続けたいという私の勝手な思いがあるからだが、いずれにしてもこの連載も今回が最後になる。これまでさまざまな人のことばを介して自分なりに考えを巡らせてきたが、最後に昨年7月の相模原障害者殺傷事件が最悪の形で差し出した「人間とは何か」という問いについて、いくつかのことばを辿りながら考えたい。

 当たり前のことだが、私たちは自ら望んでこの世に生まれたわけではない。ただこの世に投げ出され、気がついた時には“私”として生きている。現象学で知られるハイデガーはそれを「被投性」と呼んだ。自分の意志とは無関係に生まれ、そして死ぬ。その不安から逃れるために人は日常の中に埋もれる(頽落する)のだが、それではいけない。死を直視すること(死への先駆的覚悟)で、見失った「生きることの意味」を再び獲得しなければならない。とても大雑把に言えば、そういうことを彼は言った。ハイデガーはヒトラー政権に重用された事実があり、その思想とナチズムとの親和性をめぐっては現在でも議論があるが、それは置いておこう。

 古くから人間は「人間とは何か」を問い、「生きることの意味」を求めてきた。紀元前5世紀に編まれたという旧約聖書「創世記」には、次のようなよく知られた一節がある。

―神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と地のすべての這うものとを治めさせよう」。―(第1章26節)

―神は彼ら(人)を祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。―(第1章28節)

 神が人間を作るに当たって自らに似せたのは、(神のように完全ではない)理性や道徳性である。人間はそうした“人格”を備えているからこそ、全生物の頂点に位置するだけでなく、それらを支配する者として神から特別な地位を与えられたわけだ。

 このようなユダヤ教をはじめとする一神教の考え方は決して遠い過去のものではない。これもよく知られているが、1948年に国連総会で採択された世界人権宣言は冒頭の第1条で次のように述べている。

―すべての人は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。―

 この宣言は第2次大戦後の世界を語る上でとても重要な位置を占めるが、そのこととは別に本稿の文脈の中で気になるのは「人間は、理性と良心とを授けられて」いると人間の“本質”規定を行っている部分だ。「授けられる(英語原文ではendowed)」にどれほどの宗教的な意味が含まれるのか、私には分からない。ただ、受動態だから本来「誰(何)によって(by〜)」が入るべきだが、それが省かれている。そこに人間の叡智を越えたものの存在を見るのはそれほど的外れではないように思う。「創世記」に記された人間像がここにも垣間見える。

 ヒトが現在の繁栄を誇れるのはその知能や知性のおかげだということに、私は異議をはさむつもりはない。デズモンド・モリスの言うひ弱な「裸のサル」は、発達した大脳皮質によって道具を使いことばを操り徒党を組んで厳しい環境を生き延びた。しかし、それはあくまでも人間であることの十分条件であって必要条件ではない。「標準」や「一般」は、当然のことながら「すべて」を含まない。

 実存主義で知られるジャン‐ポール・サルトルは、第二次大戦終結直後のパリで「実存主義はヒューマニズムである」と題する講演を行った。そこで提示された「実存は本質に先立つ」という定式はあまりにも有名だ。彼はこう述べる。

―神は職人が一つの定義、一つの技術に従ってペーパー・ナイフを製造するのとまったく同じように、さまざまな技術と一つの概念とに従って人間を創るのである。こうして個々の人間は、神の悟性のなかに存するある一つの概念を実現することになる。―(『実存主義とは何か』人文書院)

 人間が椅子やペーパー・ナイフを作成するように神が人間を作成する事態を、サルトルは「本質が実存に先立つ」と言う。椅子とは何かという概念が先にあって椅子が作られるのと同じように、人間とは何かという“本質”規定が先にあって、その後に人間が現れる。そこでサルトルは無神論の立場を明確にした上で次のように語る。

―人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。―(同書)

 これが「実存は本質に先立つ」が意味するものだ。サルトルはここであくまでも西欧的な知性を前提にしつつ人間の本来的な自由や主体性について語っているのだが、私は彼のこの定式を「実存は本質に先立ち、本質を圧倒する」と拡張してみたい。人間が生きて存在することに、どのような“本質”規定も入り込む余地はない。どのような人も、この社会のメンバーであるための資格を問われることはない。そのことが重要だ。

 相模原事件のU被告は、事件から1年後のメディアの取材に「人の心を失っている人間を私は心失者(U自ら「シンシツシャ」とルビを振っている)と呼ぶ」、「命を無条件で救うことが人の幸せを増やすとは考えられない」などと事件前と変わらない自説を披露している(「日テレニュース24」他)。それらのことばがこだまのように自分に返ってくることに、なぜこの青年は気づこうとしないのか。

 日本社会は既に事件を自らに都合よく吸収し、と同時に事件への関心を急速に失いつつある。その一方で遺伝子操作や出生前診断の技術は飛躍的に向上し、売れっ子脚本家の『安楽死で死なせて下さい』がベストセラーになる。そうやって人間が自らにくだす“本質”規定が、徐々に確実に人と社会を痩せ細らせていく。肝心なことに目を向けようとしないのはU被告だけではないのだ。

 

こばやしとしあき/『そよ風のように街に出よう』副編集長)

 

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