人はいずれ死ぬる。わかっちゃいるけど…

あの世ってあるのかよ?

(昨年ツレを亡くし、ことし真の友と別れたボクの気持ち)


牧口 一二

2017/12/11

 

  ボクが満80才になった8/29、夕方ごろパソコンを開くと、副編集長の小林敏昭からメールが届いていて、「この形態の『そよかぜ』は、この号が最後です。エッセイのこと、よろしく!」と(ナント、小林のお連れアイも8/29が誕生日と聞いている)。きょうは河野を見舞い、事務所に戻ってボクにメールし、夜はお2人でどこかに……かな。

 じつはこの日の昼、小林と西村吉彦(長年、装幀とレイアウトを担当)とボクとのトリオで、月1ペースで入院中の河野秀忠を見舞っていた(これが最後の別れになるとも知らず)。それまでは別のリハビリ病院で、歩行訓練ができるまで回復してきたし、自分で車いすを乗り降りし、チグハグな会話ながら話もできていた。だが、病院を移ってから(その所為とは言い切れないが)だんだん容態が悪化し、6/23に(この日は、長年にわたりボクと同じく、いやボクより読ませるルポ記事を書いてきた・岡本尚子も同行)見舞った頃には、声をかけても胸や足の裏に触れてみても(岡本はあくる日もきて抱きしめたとか)、瞼を閉じたり開いたりはするものの、分っているのか感じてもいないのか、反応が曖昧だった。尿はベッドから下がった袋にけっこう溜まっていた。

 つまり、小林からこのエッセイを頼まれた時点では、間違いなく河野は生きていた。そのほぼ1か月前に2人の息子さんと我らトリオは主治医に会い、河野の意志通り延命治療はしないでほしい旨を確認しておいた。だが、まさかこの文が追悼になろうとは……

 河野とは、『そよ風…』に始まり、災害を被った障害者を支援する「ゆめ風基金」まで、さまざまな障害者市民運動につるんで携わってきた。周りで一緒に運動を担っている仲間たちから、「この2人がどうしていつも一緒にやれるんだ?」と不思議がられた。それほど他者の目に映る2人は違っていたのだろう。違っているどころか真逆のタイプと思われていたフシもある。ときどき「なぜ、一緒に?」と直接言ってくる仲間もいた。ボク自身は水と油ほどとは思わないが、確かに見た感じは相当違ってるんだろうな、くらいは思っていた。でも長年、一緒にやってきて違和感はまったくなかった、障害者と健全者の違い以外は。

 いま改めて考えてみると、河野も障害者だった気がする。ボクと出会う前から障害者の世界で生きてきたようだし、ボクとの付き合いも「障害・障害者」を抜きにして考えられない。簡単に2人の違いを言うと、河野は強くて頑固、行動が素早い、だが自分の事となると少年のようにはにかむ。この硬軟のギャップが人を引き付けるのだろう。ボクは子ども時代から今に至るまで軟弱、のろま、真面目じゃないのに真面目に見られる。

 話を戻して、阪神淡路大地震の直後、ボクはテレビに釘付け状態(前夜は徹夜でワープロを叩いていた)。と、荒れ果てた街のどこか、水道蛇口が映り、「この水、使って。誰が使ってもええんよ」との張り紙。あの、第二次世界大戦の敗戦直後の殺伐とした情景を思い起こさせる映像の中に、ポッと希望の灯りを見出したような、やさしいやさしいシーンが映った。そのとき、ボクの脳みそに電流が走った。「どんどんお金集めるから、どんどん使ってええんよ」とのキャッチコピーが閃き、何ものかの力がそうさせたようで、地域で自立生活を始めた障害者の住まいが一瞬の地震で壊れてしまった、その仲間への呼びかけ文が、のろまなボクには信じられない速さで書き上げられていったのだった。すぐさま河野のところ(りぼん社)へ持っていった。

 河野はすでに『そよ風…』や運動で親しくなった著名人宛に「タスケテェー」の手紙を書き始めていた。ボクが何ものかの力によってスラスラ書けてしまった呼びかけ文を手渡すと、彼は「よっしゃ、これでいこう」と大きく頷いた。だけど、まず被災地の状況、安否確認が先だ。神戸・淡路や西宮・伊丹あたりの仲間が心配だった。リュックを担いで大阪から神戸への3つの電車(だが止まったまま)、そのレールの上を歩いて救援に向かう人々の群れをテレビニュースが報じている。当時、ボクは松葉づえ。河野がレールを歩いて神戸へ向かうことになった。

 半日ほど経って神戸・三宮の河野から電話、「えらいことになっとる。金や、金を集めなあかん」「そやろな、何ぼくらい要るやろ」「10億円や! 10億円」「えっ?! とりあえず5億円にしようや」……とっさのことながら、これからの募金活動なのに値切っているボクがいた。その時、河野の頭には全国からお金を集めるつもり。ボクは近畿周辺を思い描いていたのだ。2人のスケールの違いが如実に出たようだ。で、呼びかける母体の名称を「被災障害者支援・ゆめ風10億円基金」とした。当初は目標の10億円にインパクトがあったけれど数年経つと、10億円を持つ団体と思われそうで、事務所には常時1、2名しかいないので怖くなり、以後は「ゆめ風基金」に改名した。 

 河野を褒めるだけではおもしろくない。ちょっと補足すると河野は何事も少しオーバーに表現するクセがある(催しに集まった人数でも、主催者発表の上をいく)。でも、あれから23年かけて、ゆめ風基金の募金総額はナントと言おうか、やっと10億円を突破したところ。あながちオーバーでもないのかな……でも、23年も先を予測していたとは思えない。そして金集めの手がかりに、大阪近辺に講演・演奏に来られる著名人の楽屋を2人で急襲し、募金をお願いして回った。最初に楽屋を襲ったのは、シナリオライターの山田太一さん(ボクはガードマン・シリーズの「シルバーシート」「車輪の一歩」以来の大ファン)が豊中市に来られたときだった。その5万円から始まり、いま10億円を超えた。続いて永六輔さん、小室等さん……永さんの提案で、関西の著名人(おもにお笑い系)のお声を拝借してボクが書いた呼びかけ文を数行ずつリレーで朗読してもらい、1本の声のテープをつくり、永さんが全国のラジオ局に放送を依頼してくれた。こうして軌道に乗り始めた。

 ボクが河野秀忠の名前を知ったのは、たしか1974年春のボランティア集会だったと思う。車いすの友とボランティアを求めていた頃で、この集会に午後から参加したのだが、午前のプログラムに河野秀忠という人が乗り込んできて、「キミらは自分の余暇にボランティアをする……何を甘いこと言ってるんだ! 障害者は四六時中、自分の障害と向き合って生きているんだぞォ〜」と捲し立て、ボランティアを始めた人たちを縮み上がらせたという。午後のプログラムに入っても、その話題がくすぶり続けていた。

 どえらい奴が来たんだなぁ、でもまぁ障害者は自分の所為でそうなったわけじゃなく、もっともな話だ。脳性まひ者集団「青い芝の会」の、マスコミに時々載っている勇ましい話に憧れていたボクは、河野秀忠に一度会ってみたいなぁと思ったが、青い芝も河野秀忠もボクみたいな軟弱者は吹き飛ばされそうで怖かった。言い訳になってしまうが、単に怖かったわけではない。ボクは美術学校デザイン科を出たものの、54社の面接でことごとく弾かれ、浪人暮らし。やっと3年6カ月後、学友4人が資金を出し合ってデザイン会社を設立したとき、5人目の仲間として加えてもらったのだった(資金は高校時代の担任から借りた)。青い芝の事務所をのこのこ訪れて、「いま何をしてるのか」と尋ねられるのが怖かった。「広告を作る仕事です」「なにィ、資本主義の奴隷かァ、顔を洗い直して出てこい」……そんな返事が怖かった。やっと手に入れた仕事を止める気にはなれなかった(当時は労働運動も盛んで、そんな空気に満ちていた。その労働運動も障害者には冷たかった)。

 それから数年後、『そよ風…』89号・91号の終刊へのカウントダウン・シリーズ@とBの座談会で少し話したが、74年に河野が殴り込みをかけた大阪ボランティア協会主催で、当時対立していた全障研と全障連の話し合いの場がもたれた。全障研からは障害者の河野勝行(こちらはコウノ)・養護学校の教師vs青い芝の誰か・河野秀忠、そして激論が暗礁に乗り上げたとき、何の因果か、まぁまぁと割って入る役でボクが呼び出された(これが河野とのまともな出会い)。じつは青い芝の障害者はこの企画を蹴ったようで、河野1人がのこのこ来て、2vs1で論争が始まった。

 座談会が始まって間なく、河野勝行の発言に、河野ならぬボクがカチンときてしまった。どんな流れだったか、詳しく覚えていないが、タクシーの乗車拒否の話題になって、彼はその原因を運転手の賃金が安すぎるからだと説いた。当時は松葉づえでよく乗車拒否に遭っていたボクは「運転手の手取りが高くなれば、余計に障害者の拒否は増えるよ。手間がかかると思い込んでいるんだから」とまぁまぁ役を忘れて言ってしまった。そのとき「そやそや」と口を挿んだのが河野秀忠だった。その帰り、「ちょっとコーヒーでも」と声をかけてくれ、近くの喫茶店で、「障害者の生の声を軸にした他にない雑誌を作りたいのだが、一緒にやりませんか」と誘ってくれたのだった。

 河野秀忠! 事ある毎に「どちらか残ったほうが葬儀委員長だぞ」と言っていたなぁ。ボクはキミの5つ上で、順序通りなら……任せるね、の心境だったもんで、半ば冗談のように聞いていたんだけど、逆になったんで少々慌てたよ。でも、2人の息子、真介さんと尚介さんは、バッチリ見事にキミの葬儀をやりきったよ。通夜も、1日おいての(友引とかで)葬儀も式場にあふれていっぱいの、キミとの思い出(ええこともイヤなことも腹立つことも)を抱いている人たちが来てくれたよ。嫌ってた人たちも来てくれたのがキミの人徳なんだよな。

(被災障害者支援【ゆめ・風基金】代表理事、『そよ風のように−』創刊以来、編集に参加。)

 

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