誰でもここで生きていい


NEKO

2012/04/23


 

 今の仕事は高齢者と接することが多いが、先日中学生向けに話をする機会があった。高齢者の特性や心理、認知症について話したあと、認知症についての簡単な寸劇を行うという盛沢山な内容であった。一時間強の短い時間で中学生が高齢者への理解が深まるのか、興味を示してくれるのかどうかは実は半信半疑であった。

 これから劇的に成長していく中学生にとって、高齢者の心理や不安を理解しようと言っても、難しいだろう。身体が動かなくなる、身近な人が亡くなってしまう、仕事が無くなり、家庭での役割が無くなっていく、疎外感が強くなる。そんな高齢者の寂しさを想像することが果たして出来るのだろうか……。

 「認知症になると、季節や場所などの認識が出来なくなります。今していたことを忘れます。でも感じる心は生きているので、嫌な感情は残るのです。想像してみてください。自分が誰で、今どこにいるかわからない、誰かが自分に話しているけど、何を言っているかわからない、ってすごく怖くないですか?」。

 はっと顔を上げた子どもが数人いた。目が合った。

 寸劇では、自分の家なのに、自分の家と認識できなくなり、家を探して徘徊する高齢者に、どのように声かけをしたらいいのか、といったことを分かりやすく場面設定した。同じ場面で、良い対応と悪い対応で比較出来るようにした。

 声をかける側の対応によって、認知症の人は混乱してしまうんだということを理解してもらうためだ。寸劇でも、じっと見つめる視線を感じた。手ごたえを感じた。

 認知症になっても、ちょっとした心遣いがあれば、残っている能力を使って、地域で生きていけるのだ。ごみを出す日が理解出来なくても、近所の人の声かけや手助けがあれば、出すことが出来る。助けや理解が得られず、ルールを守れないのは自分勝手だと責められて、地域から徘除されてしまうのではあまりにも悲しい。

 「認知症になっても安心して、往み慣れた土地で生きていけます。周りが見守ってくれればいい。ちょっとした手助けでいいんです。みんなも認知症の理解者、サポーターになってください。出来ることからでいんです」。

 最後の解説が終わった後で、子どもたちの表情は変わって見えた。やって良かった。杞憂だった、と確信した。子どもたちの持つ可能性に感謝した。年を取ることに不安や絶望を感じてほしくない。年を重ねることで、見えてくることもある。安心して生きて老いていこうよ。

 今回の講演を手伝ってくれた、認知症の家族を介護した介護者グループの一人が最後の挨拶をした。73歳の彼は「私は認知症の母を7年間介護して看取りました。そして、一昨年に癌を発症し、余命3年と宣告されました。今夏入院して治療しましたが、転移が確認されました。来春、私はもうこの世にいないでしょう。でも、今日、皆さんに伝えることが出来ました。私の思いが皆さんの中で受け継がれていくことは本当に嬉しいです。今日はありがとうございました」。

 高齢者になっても、認知症になっても生きていける社会を、これから担ってくれるだろう中学生の子どもたちに託せたことを信じたい。    (つづく)

(ねこ/『そよ風のように街に出よう』に「聞き耳ずきん」を連載中)

 

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