蘇るか、縦貫線





<写真は、秋葉原構内縦貫線 常磐・高崎線電車が停車中>

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 この3月末に、JR東日本から、いわゆる縦貫線の建設計画が示された。

 縦貫線といっても、日本海に沿った羽越線・北陸線のことではない。首都東京の真ん中、東京・上野間の市街地を縦(南北)に貫くから、縦貫線なのである。



 現在、この間には山手線、京浜東北線の上下4線のほか、東北新幹線が並行している。 
<左写真 神田駅ホームから>


東北・高崎・常磐の各線はご存じの通り上野止まり。従ってこれらの線の乗客は、上野で山手・京浜東北線に乗り換えるので、両線の最混雑区間となっているのが現状である。


 これを改善するために、このほかに2線、
中距離電車や在来線の特急などが走る線路を整備しようと言うのが、この縦貫線の計画である。

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 すでに、
「ベルリン」の記事でも、ざっと触れたが、今から約百年前に、お雇い外国人として、日本に赴任したドイツ人鉄道技師、フランツ・バルツァー。
 
 彼は、同じドイツの技術者ルムシュッテルの発想になる東京の鉄道網の原案を整理して計画として取りまとめ、その中心に東京駅を置いた。

 そして、当時東海道線の始発駅だった新橋(汐留)と、日本鉄道(東北線)の始発駅だった上野の間に
複々線の高架線を建設し、2線を市内交通用(今の山手線)に、残りの2線を両幹線をつなぐ路線(縦貫線)として活用するよう提言した。

 この発想は、当時隆盛のドイツ帝国の首都ベルリンにおける都市貫通型の鉄道網が下敷きにあったとされる。


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 この案は、1888年(明治21年)の市区改正設計にも組み込まれ、まず
電車線(市内交通線)の建設が1919年(大正8年)から進められ、1925年(大正14年)、東京・上野間が開業した。

 それまで1919年(大正8年)の東京駅完成以来、東京・品川・新宿・上野間の「C」の字運転、4年後の中央線東京駅乗り入れ以降は、中央線に乗り入れる形での山手線の変則「の」の字運転が解消され、今に至る
山手線の環状運転として結実した。



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 これに先立つ1923年(大正12年)には、関東大震災が東京を襲い、竣工したばかりの東京駅も含め、鉄道施設が大きく被災した。その復興計画において、田町・上野間については、従来の計画に
2線を加えた計6線とする増設計画が立案された。

 これは、将来の輸送計画に備えたもので、電車線2線、列車線2線、併用線2線とする使い道が示された。併用線2線は、現在の京浜東北線の快速電車にあたる電車と横須賀線が線路を共用するという発想であった。

 この計画については、帝都復興院に用地買収を依頼し、6線分の用地確保が完了するが、線路増設は1930年(昭和5年)に当時の世界不況のあおりで工事が
中止された。


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 1935年(昭和10年)には、計画を一部改訂の上、再び実行に移されるが、東京駅のホーム増設や玉突きで移転する操車場、いまなお田町に残る乗り越し跨線橋、一部の高架橋などの完成を見たのみで、戦況の悪化により計画としては未完のままに終わった。
 
 しかし、縦貫線はほぼ完成し東海道線列車の尾久操車場への回送線としての機能は果たした。





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 戦後を迎え、いわゆる通勤地獄の改善が大きな社会問題になった。

 このため、戦前の構想を改訂し、簡潔な案として、田町・田端間で
山手線と京浜東北線とを分離する計画とし、早急な混雑緩和を図ることとした。

 この計画は、1949年(昭和24年)に着工され、7年後の1956年(昭和31年)に完成し、現在に至るまで、首都圏のJR鉄道網の根幹を担っている。

 この間、通勤混雑の軽減のための緊急避難として、1954年(昭和29年)から2年あまりの間、
常磐線が上野から有楽町に乗り入れしたのが特筆される。

 東京・有楽町間は、山手・京浜東北線分離のための線路スペースを単線だけ使ったとされるが、古くからの常磐線利用者のなかには、この乗り入れを懐かしむ声もあるという。

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 一方、戦前に作られた縦貫線用の高架橋は、山手・京浜線分離用に転用されたが、引き続いて東側に高架橋が整備
<右写真 東京神田間>され、東北・高崎・常磐の各線の通勤列車の東海道方面乗り入れや、一部特急列車の東京着発なども行われ、縦貫線としての機能が果たされた。
 
 しかし、本来の用途に使われたのは、1973年(昭和48年)までの期間に過ぎなかった。




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 昭和40年代に入り、東京・上野間の東北新幹線の建設が実施に移された。もとの計画では、東海道と東北(上越)新幹線を相互に直通させるというかつての
バルツァー構想の新幹線版であったが、その後運転取り扱いの都合などで変更された。

 現在はJRの分割に伴い両新幹線は別会社となり、とても直通の実現は望めそうもない。

 神田駅付近では、新幹線の用地を生み出すため、縦貫線用の高架橋は取り
壊された<右写真 右側新設された東北新幹線 左側山手線>が、新幹線の工事に際して、3階部分に将来の縦貫線用の構造物を載せられるよう工夫がなされた。<右下写真 神田駅新幹線高架橋 この上に縦貫線が乗る>
 今回のJRの計画もそれを利用することとしている。

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 明治期以来、なにかと因縁のある縦貫線である。



 東京駅にのみ列車が集中する傾向は必ずしも是とすることはできないが、都心にあるターミナルからそれぞれ方面別の始発列車が出るという輸送体系は、これほど通勤圏が拡大し、多くの都市内拠点が育ってきた現在、確かに時代に合わないのかも知れない。

 すでに、東海道線と東北・高崎線とは、昨年来、「本物」の山手線(旧貨物線)を通って、新宿経由で、
湘南新宿ラインとして直通している。
 
 また、車両運用の改善により20ヘクタールにも上る品川車両基地の有効利用(転用)も図れるという。

 それにしても、こうした構想を100年も前に描いた(お雇い外国人といわれた)当時の欧米の鉄道技術者に、
改めて敬意を表したい


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資料 東京駅誕生 鹿島出版会