バッハの「フーガ」 〜「音楽の捧げもの」に見るフーガの真髄〜 

2011年 6月 25日 初版作成


 横浜フィルの次回・第66回定演の定期では、バッハ作曲/エルガー編曲の「幻想曲とフーガ BWV.537」を演奏します。
 バッハの音楽の特徴である「対位法」、その中の「フーガ」について、この際少し親しんでみましょう。



1.バッハのフーガ

 オーケストラで演奏していると、なかなかバッハを体験できません。
 弦楽器奏者なら、まだ「管弦楽組曲第3番」の「アリア」とか、ブランデンブルク協奏曲第3番などを演奏する機会があると思いますが、管楽器奏者はまずバッハを演奏するチャンスはないと思います。

 バッハの音楽は、「旋律+伴奏の和声」という古典派以降の音楽(ホモフォニー)とは違い、基本的に「多数の旋律の絡み合い」(ポリフォニー)で成立しています。ポリフォニーの代表的な作曲技法である対位法、その中でもひとつの主題を元に複数声部を重ね合わせる「フーガ」を、バッハは得意にしていたようです。
 今回演奏する「幻想曲とフーガ C-moll BWV.537」も、後半の「フーガ」部分は、その名の通り「フーガ」です。前半の「幻想曲」は、おそらく形式的には自由なものと思いますが(その意味で「前奏曲」と同じようなもの)、技法的にはやはり「フーガ」を用いていると思います。(1小節目に現われるテーマを、すぐに五度下で同じテーマが追いかけ、さらに6小節目(原曲の譜割りだと3小節目)、さらに4声目のテーマが14小節目(原曲だと7小節目)から始まるところなど)

 「フーガ」という技法は、1つの旋律をいろいろに加工して複数声部に順次時間をずらして現われるものです。
 「加工」というのは、1つの主題に対して、

   ・全く同じ旋律のまま(=同度
   ・4度あるいは5度移動
   ・上下を逆さま=反行
   ・前後を逆さま(後ろから前に)=逆行
   ・上下を逆さまにして後ろから前に=反逆行
   ・音価を引き伸ばし=拡大
   ・音価を短縮=縮小

といった具合に機械的に操作することです。

 「フーガ」では、各声部の「加工」は厳密に「機械的」という訳ではなく、即興的に変形していくようです。
 これに対し、「フーガ」の1形態である「カノン」は、かなり厳密に「機械的」に反復・加工するもののようです。(そのひとつが、同じ旋律だけを反復する「輪唱」)

 「フーガ」や「カノン」といった「ポリフォニー」音楽は、実はバッハの時代には既に「古臭い」形式になっていました。現実にバッハ(1685〜1750)と同時代のフランスのラモー(1683〜1764)は和声法や調性を体系化・理論化していたようですし、大バッハの息子たちであるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜1788)やヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)、そして同世代のハイドン(1732〜1809)はポリフォニーを捨てて「旋律と和声」からなる「ホモフォニー」音楽を書いています。
 その意味で、バッハは「ポリフォニーを集大成した」と呼ばれるわけです。
 

2.フーガの見本としての「音楽の捧げもの」

 「ポリフォニー」「フーガ」とはどんなものかを知るには、バッハの「音楽の捧げもの BWV.1079」の楽譜を見ながら聴いてみるのがよさそうです。フリードリヒ大王から提示された主題に基づく「カノン」や、やはりフーガの一形式である「リチェルカーレ」、そして提示主題を使った「トリオ・ソナタ」などで構成されています。
 フリードリヒ大王から提示された主題は、9小節フレーズというちょっと複雑で扱いづらそうなものです。

フリードリヒ大王から提示された主題
    

 この曲集に含まれる「カノン」の楽譜は、実は「謎解き」として書かれています。
 そもそも、この曲集のタイトル自体が謎解きです。楽譜にはラテン語で「Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta」というタイトルがついています。これは直訳すると「カノン様式で解決した王の主題による楽曲と付属曲」といった感じのようですが、その各語の頭文字をとると「RICERCARe(リチェルカーレ)」となります・・・。

 ここに含まれる曲は、「どのように楽譜を読んで、どこから始めるか」が謎なのです。1つの声部の楽譜を、上下さかさまに読んだり、後ろから前に向かって読んだり・・・。それを一音も変えずにを同時に演奏するだけで、立派な音楽になる・・・。バッハは、そういった「フーガ」の真髄を、この曲で示したかったのでしょう。

 例えばこんな・・・(「2声の反行カノン」の「謎の楽譜」と解決譜です)。下段にはハ音記号が2つ書かれていて、1つは上下逆向きになっているとことに注目!! 第3声部は、第2声部の上下逆さま(反行形)に演奏するのです。

2声のカノン(謎の楽譜)
     

2声のカノン(解決譜)
     

 バッハは、クソまじめなガチガチの頑固おやじ、というイメージですが、こんなユーモアや悪戯っぽいところもあるのですね。「厳密な形式」を逆手に取ったユーモアなのでしょう。

 楽譜は、ペトルッチの無料楽譜もダウンロードできますが、「謎解き」と「解題」を解説付きで見たほうがよいので、音友版などの国内版をお勧めします。

OGT-135 バッハ 「音楽の捧げ物」BWV1079 (音楽の友社)

 なお、この「音楽の捧げもの」の「謎」については、池辺晋一郎氏の「バッハの音符たち」 にも出てくる有名なお話ですね。

 
 

3.「音楽の捧げもの」の構成

 「音楽の捧げもの」(Das Musikalische Opfer、BWV 1079)は下記の曲で構成されています。

  T.リチェルカーレ(3声)  :これがフリードリヒ大王の御前で即興演奏したときの再現譜ということのようです。

  U.無限カノン :3声。下段の楽譜に音部記号が2つ付いているのに注意。永遠に繰返し・・・。(ヨハン・シュトラウスなどの「常動曲」と同じ)
     

  V.各種のカノン
   (1)2声の逆行カノン :2声といいながら、楽譜は一つ。第2声部は同じ楽譜を最後から前に向かって演奏します(逆行カノン)。(楽譜の最後にハ音記号が逆向きについているのに注意)
     
   (2)2声の同度カノン :2声の楽譜ですが、上段は一つの楽譜を2声で兼用し、結果としては3声になります。高音第2声部は第1声部と同じ音を後追いで(同度カノン)。
     
   (3)2声の反行カノン :上に掲げた楽譜です。やはり2声の楽譜ですが、下段は一つの楽譜を2声で兼用し、結果として3声。下段の楽譜の音部記号の一方が逆さまであることに注意(反行カノン)。
   (4)2声の反行の拡大カノン :「伸びゆく音とともに王威の栄えんことを」との副題があります。下段の一方は音部記号逆さま(反行形)で、副題のように音価を2倍に延ばす(拡大形)。
     
   (5)螺旋カノン :「昇り行く転調とともに王の隆々たらんことを」との副題があります。1周回するごとに音が1音高く転調し、また1周回してくるとさらに1音高く転調・・・(ずっと繰返し)。これも副題のとおり。2声の楽譜ですが、下段は一つの楽譜を2声で兼用し、結果としては3声。
     

  W.上方5度のカノン風フーガ :2声の楽譜ですが、上段は一つの楽譜を2声で兼用し、結果としては3声になります。第1声部が10小節遅れで第2声部の5度上を正確になぞります。5度移すので正確には「カノン」ではない(元の旋律にフラットが1つ増える)ので、「カノン風フーガ」と呼んだのでしょうか。
     (注)音友版のスコアでは、この曲は解決譜のみが載っています。
    

  X.6声のリチェルカーレ :これは6つの楽器の合奏のように書かれていますが、鍵盤楽器で1人でも演奏できるように書かれているそうです。1人で演奏できるのに6段の楽譜で書いた、というのがトリックでしょうか。
     この曲は、アントン・ヴェーベルンがオーケストラ用に編曲していることでも有名です。

  Y.謎のカノン(尋ねよ、さらば見いださん) :この2つのカノンには、解決のヒントが与えられていません。従って、何種類かの解決策が存在するようです。
   (1)2声のカノン :楽譜は1声のみです。低音声部は上下逆さま(逆行)で。
     
   (2)4声のカノン :やはり楽譜は1声のみ。1つの楽譜で4声部の音楽にしてしまう職人技。
     

  Z.トリオ・ソナタ :そのまま演奏すればよいようです。フルート、ヴァイオリンと通奏低音によるトリオ・ソナタで、「緩−急−緩−急」の4楽章からなる「教会ソナタ」です。

  [.無限カノン :そのまま演奏すればよいようです。第2声部は第1声部の5度上から始まる反行形ですね(これも職人技!)。
 

 この「音楽の捧げもの BWV.1079」は、楽譜を見れば分かるように、「トリオ・ソナタ」を除き、演奏する楽器が指定されていません。抽象的な「フーガの見本」を作って示す、ということが目的だったのでしょうか。(その意味で、この曲のすぐ後に作曲して死によって未完に終わる「フーガの技法 BWV.1080」と似たようなところがあります。「フーガの技法 BWV.1080」も楽器指定がありません)
 

4.「楽譜のトリック」のその他の例

 このバッハの「音楽の捧げもの」に似た、楽譜上のトリックとして、私の知っている範囲では次のようなものがあります。

(1)モーツァルトの「カノン」

 ヴァイオリン二重奏(リコーダでもなんでも可)で、楽譜を間に置いて、上と下から同じ楽譜を見ながら二重奏できます。2種類ありました。左は、「K.Anh.10.16」というケッヘル番号があるようです。
 バッハと同じように言えば、「2声の反逆行カノン」ということになります。
 ただし、こちらは逆向きに楽譜を眺めて演奏できる、という「ビジュアル」面も兼ね備えているという点で一枚上でしょうか。
      

(2)ハイドンの交響曲第47番

 ユーモアとアイディアの宝庫、ハイドンにもありました。
 交響曲第47番の第3楽章メヌエットです。
 メヌエットの後半は前半の「逆行形」、トリオの後半はやはり前半の「逆行形」。カノンではなく、メロディと和声全体が、全ての楽器がそろって逆行するという職人技!
 でも、音で聴くと、長い音符と短い音符の強弱のタイミングがずれ、音楽として若干の違和感があります(メヌエット2段目の2小節目、3小節目のホルンなど)。わざとそういう「フェイント」効果を狙ったのかもしれません。
    

    
    

(3)ヴェーベルンの「交響曲」

 この「交響曲Op.21」(1928)は、ただ聴いただけでは「何のこっちゃ?」というだけですが、「どのように作られているか」を知ると驚きです。厳格な十二音技法を用い、十二音技法のソナタ形式とはどうあるべきか、ということを徹底して考え抜いて作曲したものと思われます。
 こちらのサイトに詳細で正確な解説がありますので、興味があったらお読みください。

 この交響曲の第1楽章では、十二音列による第一主題として、「逆行形のない音列」、つまり「山本山」「竹やぶ焼けた」というような、後ろからたどると(逆行)同じ音列(を転調したもの)となるものを用いています。
 そして、第二主題には、第一主題の反行形(上下を逆にしたもの)を使っています。当然ながら、第二主題の「逆行形」も存在しないことになります。
 つまり、提示する主題のフーガ的な操作では、第一主題と第二主題以外の主題は存在しない、という極めて厳格な制約を課したわけです。

 その主題を、バッハの「音楽の捧げもの」の「6声のリチェルカーレ」の管弦楽編曲にも見られる、「音色旋律」という手法で演奏するように作られています。つまり、一つの旋律を、いろいろな楽器で歌い継いでいく、というやりかたです。

 さらにその上に、上記の「解説」によると、これらの主題に対位法的にからむのは、すべて第一主題か第二主題の変形のみ、すなわち「第一主題」と「第二主題」に基づく一種の「フーガ」として作曲されている、ということのようです。
 交響曲の第1楽章は、たった1つの主題だけから構成されている、ということ・・・。そして、余分な音を一切排除した禁欲的な潔さ・・・。

 ヴェーベルン自身は、「どう出来ているかではなく、どう響くか、どう聴こえるかが重要だ」と言ったそうですが・・・。
 ちなみにこの交響曲は、第2楽章までしかありません。第2楽章は「変奏曲」形式です。(2つの楽章を合わせても10分程度の演奏時間)

 ヴェーベルンが、20世紀後半の音楽に大きな影響を与えた理由はそこにあるのでしょう。
 第二次大戦敗戦後の混乱の中で、占領軍として駐留していた米兵の誤射で不慮の死を遂げなかったら、戦後にどのような音楽の発展を見せてくれたのでしょうか。
 聴衆を無視した、作る側の論理だけでは? という見方もありますが。

(注)私見ですが、音楽はあるときは情緒的に、あるときは論理的・理知的に聴く必要があると思います。「心」と「頭」とで、ということでしょうか。情緒的に聴いているだけでは、20世紀以降の音楽は「音楽にあらず」ということになってしまいます。古典派・ロマン派の音楽だって、「作曲家は何を意図したか」を考えなければ、真の感動は味わえないかもしれません。



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