ドビュッシーの管弦楽曲 〜2018年3月25日はドビュッシーの100回目の命日〜

2018年3月25日 作成

 ドビュッシーが亡くなったのは1918年3月25日でしたから、今年(2018年)の3月25日は100回目の命日、つまり没後100周年でした。
 ということで、ドビュッシーの中ではややマイナーな管弦楽曲に関してちょっと書いてみます。

クロード・ドビュッシー(1862〜1918)


1.ドビュッシーの簡単な生涯

 ドビュッシーは有名だし、ある意味で「フランス音楽」の代表選手でもあるので、本や録音や記事もたくさんあります。
 なので、簡単に生涯の出来事だけ列記しておきます。
 時代的には、マーラーの2才歳下、R.シュトラウスの3才歳上、ラヴェルの13才歳上になります。

 1862年8月22日:パリに生まれる。父親は一介の労働者で、1870〜71年の普仏戦争とその後のパリ・コミューンに参加します。そのとき逮捕された父親が収容所で知り合った音楽家の母親であるアントワネット=フロール・モテ夫人に、ドビュッシー少年はピアノを習うようになります。1871年、ドビュッシー9歳のことです。
 このピアノの先生であるモテ夫人は、娘が詩人ヴェルレーヌ(1844〜1896)と結婚しており、当時出産前後の妻とともにヴェルレーヌ本人も身を寄せていたそうなので、おそらくドビュッシーは会っているのでしょう。さらには後にヴェルレーヌの同性愛の相手として出奔する詩人のアルテュール・ランボー(1854〜1891)も出入りしていたらしいので、これまたドビュッシーも会っていたかもしれません。
 その指導が非常に優秀だったのか、ドビュッシー少年は翌1872年に10歳でパリ音楽院の入学してしまいます。
 1880年、18歳のときに、チャイコフスキーのパトロンとして有名なフォン・メック夫人一家の夏のヨーロッパ旅行にピアノ教師として同行します。こ夏のアルバイトは1882年(20歳)の夏までの3シーズンに及びました。

 1884年(22歳)にローマ大賞を受賞して翌1885年1月からイタリアに留学します。ところが、居心地が悪かったのか、最低期間2年を過ぎた1887年3月にローマを引き払って帰国してしまいます。留学課題制作の第1作であるハイネの詩に基づく交響的頌歌「ツライマ」は未完、第2作「春」はオーケストレーションが間に合わず「4手ピアノ用」として提出されました。この「春」に対する学士院の批評「あの曖昧な印象主義に陥らないよう注意すべし」がドビュッシーの一種の代名詞「印象主義」となりますが、ドビュッシー自身はそんな認識もなく、そう呼ばれることも嫌っていたようです。なお、この「春」は後に(作曲家生存中)アンリ・ビュッセルがオーケストラ編曲して現在では「交響組曲『春』」として演奏されています。

 1890年(28歳):ガブリエル・デュポン(ギャビー)と恋愛関係に。
 1892年(30歳):ギャビーと同棲開始。この年メーテルランク「ペレアスとメリザンド」発表。
 1893年(31歳):戯曲「ペレアスとメリザンド」を見て、メーテルランクに歌劇化を申し出て快諾される。「弦楽四重奏曲」を作曲・初演。
 1894年(32歳):「牧神の午後への前奏曲」を作曲、国民音楽曲会で初演。歌手のテレーズ・ロジェと婚約するが、ギャビーの存在がばれて破談。
 1896年(34歳):サティの「ジムノペディ」2曲を管弦楽編曲。
 1897年(35歳):ギャビーが自殺未遂。
 1898年(36歳):メーテルランク「ペレアスとメリザンド」英語版でのロンドン上演に対してフォーレが付随音楽を作曲。ギャビーと別れる。
 1899年(37歳):「夜想曲」完成。ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚。
 1901年(39歳):オペラ・コミック座から翌シーズンに歌劇「ペレアスとメリザンド」を上演するとの連絡がある。メーテルランクが愛人ジョルジェット・ルブランを主役にするよう要求し、ドビュッシーと決裂する。
 1902年、4月30日に歌劇「ペレアスとメリザンド」初演。メーテルランクが上演を妨害しようとしたり、批判的な批評やパリ音楽院長デュボアが学生に観に行くことを禁じたりしたものの、上演を重ねるごとに評価が高まり、6月までのシーズン中の14回の公演に対してドビュッシー自身は「大成功」と評価している。
 1903年(41歳):レジオン・ドヌール五等勲章を受章。この頃、ピアノの生徒だったラウル・バルダックの母親エンマ・バルダック(1862〜1934、ドビュッシーと同い年)と知り合う。
 1904年(42歳):妻リリーを実家に帰し、ドビュッシーはエンマとジャージー島に避暑に出かける。その秋、リリーが自殺未遂。
 1905年(43歳):ドビュッシーとリリーとの間で離婚調停成立。また、エンマと銀行家の夫との間でも離婚成立。エンマは既に妊娠中だった(生まれるのが父母両方の名前を取ったクロード=エンマ・ドビュッシー、愛称シュシュ)。交響的スケッチ「海」作曲、初演。初版楽譜の表紙は葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」もどき。

葛飾北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」



ドビュッシー/交響的スケッチ「海」スコアの表紙
(この現物は2017年に国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニズム展」にも展示されていました)

 1908年(46歳):ピアノ曲「子供の領分」。
 1910年(48歳):父が他界。ピアノ曲「前奏曲集第1巻」。
 1912年(50歳):バレエ音楽「カンマ」。
 1913年(51歳):ロシア・バレエ団委嘱によるバレエ音楽「遊戯」、ピアノ曲「前奏曲集第2巻」。
 1914年(52歳):第一次大戦勃発。
 1915年(53歳):母が他界。ショパン・ピアノ曲全集の楽譜校訂。「フランスの作曲家クロード・ドビュッシーによる様々な楽器のための6つのソナタ」を計画。「チェロ・ソナタ」(6つのソナタの第1番)。11月に直腸がんと診断され、12月に手術。
 1916年(54歳):未完の歌劇「アッシャー家の崩壊」(原作はエドガー・アラン・ポー)の台本決定稿完成。「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」(6つのソナタの第2番)。
 1917年(55歳):「ヴァイオリン・ソナタ」(6つのソナタの第3番)。
 1918年3月25日に他界。6つのソナタのうち、第4番(オーボエとホルンとクラヴサン)、第5番(トランペット、クラリネット、ファゴット、ピアノ)、第6番(コントラバスと様々な楽器)は構想だけに終わる。

これには後日談もあり
 1919年7月、シュシュがジフテリアで他界。13歳。

2.ドビュッシーの管弦楽曲

 ドビュッシーはいろいろな曲を書いていますが、「管弦楽曲」は意外に少ないです。
 通常演奏されるのは「牧神の午後への前奏曲」と「海」ぐらいでしょうか。
 本人が完成したものは、下記がすべてです。

・ピアノと管弦楽のための幻想曲(1889年)ローマ留学中の作品だが未提出。
・牧神の午後への前奏曲(1891〜94)
・夜想曲(雲、祭、シレーヌ)(1897)第3曲「シレーヌ」(セイレン、海の妖怪)は女声合唱を伴う。
・管弦楽とサキソフォンのための狂詩曲(1901〜11)
・3つの交響的スケッチ「海」(1903〜05)
・2つの舞曲(聖なる舞曲と世俗の舞曲)(1904)
・管弦楽のための映像(ジグ、イベリア、春のロンド)(1905〜12)
・クラリネットのための狂詩曲第1番(1909〜10)
・バレエ音楽「遊戯」(1912〜13)ディアギレフの「バレエ・リュス」委嘱作。

これ以外に、作曲者本人が自分の曲を管弦楽編曲したものがあります。

・「民謡的な主題によるスコットランド行進曲」(ピアノ連弾曲より編曲、1908年)
・「英雄の子守歌」(ピアノ曲より編曲、1914年)
・「レントより遅く」(ピアノ曲より編曲、ツィンバロンを含む、1914年)

他人が管弦楽編曲したものに、有名なものでは下記があります。

・「リア王」(未完、一部のみロジェ=デュカスによる管弦楽編曲、1904年)
(注)このロジェ=デュカス(Jean Roger-Ducass、1873〜1954)は、「魔法使いの弟子」で有名なポール・デュカ(Paul Dukas、1865〜1935)とは別人のフランスの作曲家です。

・「小組曲」(1889年のピアノ連弾曲を1907年ごろアンリ・ビュッセル編曲)
(注)アンリ・ビュッセル(1872〜1973、長生き!)は、フランスの作曲家・編曲者・指揮者。ドビュッシーの理解者、友人。本名はアンリ=ポール・ビュッセル。

・「子供の領分」(1908年のピアノ曲を1911年にアンドレ・カプレ編曲)
・「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
  神秘劇「聖セバスティアンの殉教」付随音楽(声楽を含む)(1911)から、1912年にアンドレ・カプレが管弦楽曲を4曲抜き出して演奏会用作品としたもの。
 (注)アンドレ・カプレ(1878〜1925)は、フランスの作曲・指揮者でドビュッシーの友人。

・交響組曲「春」(1887年のローマ留学作品のピアノ連弾版を1912年にビュッセルが編曲)

・バレエ音楽「カンマ」(管弦楽編曲はシャルル・ケクランが完成)(1911〜12)
 (注)シャルル・ケクラン(1867〜1950)は、フランスの作曲家、音楽教育家。フォーレの劇音楽「ペレアスとメリザンド」の管弦楽編曲も行っている。

・バレエ音楽「おもちゃ箱」(管弦楽編曲はカプレが完成)(1913)

・「舞曲」(ピアノ曲「スティリア風タランテラ」からラヴェル編曲)
・「ピアノのために」より「サラバンド」(ピアノ曲からラヴェル編曲)

あまり有名ではありませんが、下記のような編曲もあります。

・ベルガマスク組曲(原曲はピアノ曲)
 第1曲「前奏曲」(ギュスターヴ・クロエ編曲)
 第2曲「メヌエット」(ギュスターヴ・クロエ編曲)
 第3曲「月の光」(アンドレ・カプレ編曲)
 第4曲「パスピエ」(ギュスターヴ・クロエ編曲)
 (注)ギュスターヴ・クロエ(1890〜1970)はフランスの指揮者。

・前奏曲集第1巻(12曲)、第2巻(12曲)(ピアノ曲)
 コリン・マシューズ編曲
  一般的な「前奏曲」のイメージに近い編曲だと思います。
 (注)コリン・マシューズ(1946〜)はイギリスの作曲家。兄のディヴィッド・マシューズとともにマーラー交響曲第10番クック版の作成に協力。ブリテンやイモージェン・ホルスト(「惑星」のホルストの娘で音楽学者)の助手も務め、ホルスト「惑星」に「冥王星」を追加しました(その直後に「冥王星」は太陽系の惑星から除外されてしましましたが・・・)。
 ピーター・ブレイナー編曲
  やや「くっきり、はっきり」イメージの編曲。
 (注)ピーター・ブレイナー(1957〜)はスロヴァキア出身のピアニスト、指揮者、作曲家、編曲者。

・「版画」(3曲からなるピアノ曲)
  第1曲「パゴダ(塔)」(アンドレ・カプレ編曲)
  第2曲「グラナダの夕暮」(アンリ・ビュッセル編曲)

・3つの練習曲(ピアノ曲「12の練習曲」より第9、10、12曲)(マリウス・コンスタン編曲)
 (注)マリウス・コンスタン(1925〜2004)は、ルーマニア出身のフランスの作曲家、指揮者。

・6つの古代碑銘(エピグラフ)(ピアノ連弾曲よりエルネスト・アンセルメ編曲)
 (注)エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)は、言わずと知れたスイスの指揮者。スイス・ロマンド管弦楽団を指揮して多数の録音を残している。
(ただし、そもそものピアノ連弾曲「6つの古代碑銘」は、2本のフルート、2台のハープとチェレスタのために書かれた朗読詩への付随音楽「ビリティスの歌」の中からピアノ曲に転用したもの)

・「白と黒で」(ピアノ連弾曲よりロビン・ホロウェイ編曲)
 (注)ロビン・ホロウェイ(1943〜 )は、イギリスの作曲家。

・「喜びの島」(ピアノ曲よりベルナルディーノ・モリナーリ編曲)
 (注)ベルナルディーノ・モリナーリ(1880〜1952)は、イタリアの指揮者。

・「ペレアスとメリザンド交響曲」(歌劇よりオーケストラ部分をマリウス・コンスタン編曲)

3.ドビュッシーの管弦楽曲の音源

 これらの管弦楽曲は、マルティノンが指揮した管弦楽曲集のCDにも一部含まれていますが、他人の編曲したものまで幅広く含むものは下記の準・メルクル指揮のものが入手可能です。

マルティノン指揮ドビュッシー管弦楽曲集
 ドビュッシー管弦楽曲の最右翼的演奏。このCDはラヴェルの管弦楽曲との組合せで8枚組。他人編曲の「有名なもの」まで含まれています。

準・メルクル指揮リヨン国立管弦楽団「ドビュッシー管弦楽曲全集」
 2007〜2010年の録音で、他人編曲のものも大半を収録しています。CD9枚組。

準・メルクル指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団「ピーター・ブレイナー編曲による前奏曲集第1巻、第2巻全曲」
 ダメ押しで、上記に含まれないピーター・ブレイナー編曲による「前奏曲集第1巻、第2巻」全曲をスコティッシュ・ナショナル管弦楽団を指揮して録音したもの。



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